吸血鬼はつらいよ!〜映画『デイブレイカー』

デイブレイカー (監督:マイケル・スピエリッグ / ピーター・スピエリッグ 2008年オーストラリア/アメリカ映画)


2019年、一匹のコウモリがもたらした災禍により人類の95%が吸血鬼と化してしまった未来。しかし吸血鬼たちは、通勤し、地下鉄に乗り、カフェに寄り、TVを観、人間であった頃とまるで同じ社会生活を存続させていた。違うのは、夜に活動し昼に眠りについていること、そして、食料が血だけであること。そんな吸血鬼社会で深刻な問題になっているのが食料=人間の血の不足だ。狩り集めた人間たちを機械化された巨大採血ファームに接続し血を集めていたが、人類は絶滅寸前であり、供給が追いつかず、各地で暴動が多発していた。主人公の血液学者エドワード(イーサン・ホーク)は代用血液の開発に奔走していたが、ある日、人間のグループが接触を試みてきた…。

この映画『デイブレイカー』、「吸血鬼が多数派を占める世界」という設定がまず面白いですね。吸血鬼だけの世界になったとしたら、その世界はどんなふうな世界になるんだろう?という想像力を目一杯働かせて物語を作っているのが面白いんです。吸血鬼ですから、基本的に死ぬことがない。吸血鬼は不死ですからね(一回死んでるともいえますが)。陽の光を浴びちゃいけないとかの吸血鬼フラグはありますが、誰も死なない社会って、逆に言えば生存の為に必要な、生き物としてのありとあらゆる制約がとっぱらわれていることになる。食料は血だけですから、それ以外の食料生産の為の労働が必要ない。生殖はしないんで、それに関わるあらゆる行為も活動も必要なくなる。死なないから、安全とか健康とか考えなくていい。だから映画でもみんな煙草プカプカ吸ってる!なにしろ、人間でない以上に、生き物ですらないんだから、そこに社会があるとしたら、本当だったら人間の常識から恐ろしくかけ離れた社会になる筈でしょう。

しかしこの『デイブレイカー』の吸血鬼人類は、人間である頃とあまり変わらない生活を営んでいる。人間だった頃の記憶がそうさせているということも出来ますが、仕事をしているってことは生産やサービスをしなければならないってことだし、なにしろこの吸血鬼社会は人間の血を確保し、それを社会構成員全体に安定供給しなければならないという重要な課題がある。じゃあ、血を飲めなくなった吸血鬼はどうなってしまうのか?というと、"サブサイダー"と呼ばれる醜く知能も無い化け物と化してしまうんですね。そして"サブサイダー"になっちゃった吸血鬼は処刑です。いやあそりゃコワイわ。そう言う訳で増えすぎてしまった吸血鬼は、自らの生存のために、人間だった頃と同じように会社に通勤してあくせく働かなきゃならない。これって、一種の皮肉な物語だよなあ。不老不死の筈なのに結局うんざりした顔しながら働かなきゃならないなんて!「お化けにゃ会社も〜仕事もなんにもない」という唄がありましたが、お化けになっても辛いことだらけだなんて悲しすぎる!

そういった皮肉の効いた設定の面白い映画として観ていたんですが、人間たちが主人公に接触し始めるあたりからちょっと雲行きが怪しくなる。人間たちは"ある事実"を主人公に伝え、それにより世界を変えようとするわけなんですが、その"ある事実"が随分お手軽過ぎねえか?と思っちゃったんですよ。吸血鬼だらけの世界は、ある意味"人類滅亡後の世界"であり、その吸血鬼の世界はドン詰まりなディストピアなんです。つまり非常にペシミスティックでニヒリスティックな世界と言えるんです。それが、"ある事実"のせいで、物語途中から、希望とか未来とか、なんかそういう楽観主義的などうにもヌルイお話になってくるんですね!いや別に希望も未来も嫌いじゃないが、この映画でそれやっちゃうんだ?とちょっと腰砕けに感じちゃうんですよ。やっぱさあ、こういったホラーテイストのお話って絶望しまくってナンボなわけじゃないですか?『ゾンビ』とか『ミスト』の、あの徹頭徹尾絶望感にまみれた物語がホラージャンルの醍醐味でしょ。オレはやっぱり、残された人類は全て死滅し、吸血鬼人類も消え去る運命でしかないという、そういう物語を観たかったなあ。

デイブレイカー 予告編