スティーヴン・キングの“不安の立像”〜『リーシーの物語』序

■オレとスティーヴン・キング

オレにとって10代の読書とはSF作品だった。そして、ファンであると認めるフィリップ・K・ディックカート・ヴォネガットは、ある種青春の文学でもあった。だからこれらの作家を今語るのは、実は若干の気恥ずかしさがあったりもする。
しかし20代を過ぎ30代になる頃には以前よりSF作品をもてはやして読むことが無くなってしまった。そしてその間に読んでいた小説とは、実はスティーヴン・キングだった。スティーヴン・キングのホラー小説は、成人し社会に出たのはいいが、ままならない現実の生活にすっかり不貞腐れてしまったオレにとっての、すれっからしの文学小説だったのだ。

■キングの二つのタイプ

彼の作品は大きく分けて二つのタイプに分かれると思う。それは実にホラーらしい骨子を備えた王道のホラー作品と、主人公が作家スティーヴン・キング自身の分身として物語世界に登場する作品とだ。
前者は『キャリー』や『呪われた町』や『ザ・スタンド』、『トミーノッカーズ』や『ニードフル・シングス』、『デスペレーション』や『ドリームキャッチャー』、近作では『セル』といった作品群だ。これらはありがちなホラー・テーマや古いパルプ雑誌に掲載されていたようなチープなSF作品、「トワイライト・ゾーン」のような往年のSF怪奇TVシリーズなどをキングの卓越したストーリーテリングで現代風に蘇らせたものだ。
後者は『シャイニング』や『クージョ』、『ファイアスターター』や『ペット・セマタリー』、『ダーク・ハーフ』や『ミザリー』、『不眠症』や『骨の袋』といった作品が挙げられるのではないかと思う。これらの作品群は、作者本人が《不安》として抱えているものが、超常現象や破壊的な暴力として具現化し、それらが主人公を微に入り細に入り苛む様子を描くというマゾヒスティックな内容なのである。

■キングにとっての《不安》

この後者の作品群で描かれるキングの《不安》とは何か?というと、例えば『シャイニング』は「僕が作家として能無しで挙句の果てに狂ってしまったらどうしよう」という物語だし、『ファイアスターター』や『ペット・セマタリー』は「僕の子供が社会からひどい目に遭わせられたり、死んでしまうようなことがあったらどうしよう」という物語だし、『ダーク・ハーフ』や『ミザリー』は「有名作家の僕がとんでもないストーカーに遭ってしまったらどうしよう」という物語だし、『不眠症』は「このまま歳を取って死を待つばかりになったらどうしよう」という物語だし、『骨の袋』は「僕の愛する妻が亡くなってしまったらどうしよう」という物語であったりするのだ。
つまりキングが抱え、そして作品の中で具現化される《不安》とは、自分と家族とが残虐な暴力や逃れられない死に遭遇することという、実に卑近な《不安》であり、ある意味おそろしく分かりやすいのと同時にかなり単純なものであったりするのだ。キングは社会も政治も世界が現在抱える問題も描かない。つまりそこに《不安》や《恐怖》を見出さないのだ。キングの興味があるのはひたすら自分と家族のことのみであり、ある意味徹底した個人主義の物語だということさえ出来ると思う。しかしだからこそ、人々の心に生々しく切り込み、支持を得るホラー作家になったのではないかと思う。

そして今回、キングの新作『リーシーの物語』が発売されたわけだが――。(つづく)