リーシーの物語 / スティーヴン・キング

リーシーの物語 上

リーシーの物語 上

リーシーの物語 下

リーシーの物語 下

■リーシーの物語

この『リーシーの物語』は、作家である夫・スコットを亡くした妻・リーシーが主人公であり、その彼女がサイコな作家ストーカーに命を脅かされるといった物語だ。そこに夫が生前彼女に垣間見せた不思議な異世界への旅や、その夫の忌まわしい過去の物語が絡み合い、一応ダークファンタジー的な味わいの作品として仕上がっている。ここでもキングは、「僕が死んでしまったら残された妻はどうするのだろう」という、またもや卑近な《不安》を作品の主題として取り上げる。

作家である夫=自分の死、一人残された愛する妻という、ある種安っぽいメロドラマ的な妄想を、情感と哀切たっぷりに上下巻の大部なフィクションとして描いたこの作品は、もともとくどい描写を得意とするキング作品のなかでも、一層くどさの際立った作品になった。なにしろ物語内では、スコットとリーシーとの出会いから結婚、二人の生活、ある衝撃的な事件、スコットの突然の死などがリーシーの回想という形で延々と語られ、その度に二人の深い愛の様子が描かれるわけだが、これがもうご馳走様と百遍位言いたくなるような濃厚さで、時々辟易としてくるのである。

さらに、作中に千回位出てくる”夫婦二人だけに分かるジャーゴン”というのが鬱陶しくてしょうがない。「ちっちゃいリーシー」だの「ベイビィラーヴ」だの「カスったれ」だの「ブール」だの「うまうまツリー」だの、お前らいい歳こいて何でそこまで暑苦しいラブラブ振りをご披露しまくらなきゃ気が済まないのだ?と小一時間ほど問い質したくなるほどである。これにアメリカ白人がいかにも好みそうなタフさを気取ったちょっぴりお下劣なジョークの応酬が厚塗りされ、胃もたれ具合はピークに達するのだ。

■サイコ野郎と異世界

『リーシーの物語』でホラーの部分を担当するのが、死んだスコットの遺稿をよこせとリーシーに迫ってくるサイコ野郎ジム・ドゥーリーだ。しかしこのジム・ドゥーリーのキャラ設定は、『ダークハーフ』に登場する殺人者ジョージ・スタークや、映画『シークレット・ウィンドウ』の原作である中篇『秘密の窓、秘密の庭』に登場する、謎の男ジョン・シューターとあまりにも似すぎている。どちらも作家である主人公と、その書かれた作品とを巡るホラー小説であり、主人公を付け狙い暴力的な凶行に及ぶという点も同一だ。これでは同じ設定の使い回しにさえ思えてしまう。

スコットがなんらかの能力でもって訪れることが出来る異世界「ブーヤ・ムーン」は、『ローズ・マダー』の中で登場する絵の中の異世界を思わせるが、これなんかは「いや、なにしろ異世界はみんな『暗黒の塔』に繋がってる訳だし」なんて言われたら返す言葉もないが、随分お手軽すぎはしないか、って気がしてしまう。また、この世界がなんなのか、という説明が無いのは取り合えず置いておくとしても、スコットが何故こんな世界に行くことが出来るのかが全く説明されていない。そのスコットの出生の秘密とやらも、で、だから、この人の家族ってなんだったの?と最後まで疑問を残す。

■姉妹たちは笑うよ

だがしかし、それと同時に、この物語は一つの姉妹愛の物語としての側面も兼ね備えている。主軸になるのはリーシーとその姉アマンダであるが、実際にはリーシーは四人姉妹であるものとして描かれている。この物語に四人姉妹の登場なんていう設定がそれほど必要だったのか、とも思えるが、どうやら作者キングの妻タビサは七人姉妹であるらしく、姉妹である女同士が大勢でキャッキャとやっている姿を作品の中で描きたくてしょうがなかったのだろう事は窺える。

実の所、過去のキング作品の焼き直しのような体裁をとりながら、それでもひとつの独立した作品として完成しているのは、先に挙げた夫婦愛の物語であるということと、ガチャガチャ言いながらも最後にはお互い助け合い協力し合う、パワフルな力を持った女性たちの物語(ただし暑苦しくはあるが)として読めてしまうからだろう。

そして、この『リーシーの物語』には、キング作品に必ずあるはずの、破滅や絶望への昏い渇きというものがまるで存在していない。それは結局、「僕が死んでしまった後に残された妻」には、破滅や絶望の淵に立って欲しくは無いというキングの願いであり愛情があるからなのだろう。そういった意味では、ホラーファンタジーとして読むと今ひとつではあるけれども、作家キングの微笑ましい一面を覗く事が出来る作品ではあると思う。