ブラックブック (監督:ポール・ヴァーホーヴェン 2006年 オランダ・ドイツ・イギリス・ベルギー映画)

■1944年オランダ
1944年ナチス・ドイツ占領下のオランダ。ホロコーストの魔の手から逃れるために主人公の女ラヘル(カリス・ファン・ハウテン)は家族共々安全な地域への脱出を試みるが、ドイツ軍に発見され彼女を除く家族全員が殺害されてしまう。命からがらレジスタンスの元に身を隠すラヘルだったが、そこでドイツ軍諜報部のとある大尉に色仕掛けで迫り、ドイツ軍の情報を盗み出す事を命じられる。
シンドラーのリスト』『戦場のピアニスト』等”反ナチ・反戦”映画と並び評されている部分もあるが、この映画のテーマとはずばり《復讐》である。そして復讐とは人間の根幹にある暴力的な情念の中でも最も大きくそして破壊的なものなのではないか。どれだけアンモラルで反社会的であろうと、《復讐》に取り憑かれた者にとって、それを完遂することはえもいわれぬ極上の甘美に満ちているものだ。だからこそ《復讐》の物語はどれも歓喜と虚無に満ちている。《復讐》によって生まれるものは何も無いが、にも拘らず人は《復讐》の暗い恍惚に身も心も奪われ、《復讐》に振り回されたまま、自らも自滅してゆく。

■復讐の連鎖
家族を皆殺しにされた主人公ラヘルは殺戮現場で目撃したドイツ軍中尉に激しい復讐心を抱く。そして彼女が身を寄せたレジスタンス組織では首領者の制止を訊かずにドイツ軍に情報を売っていた味方の筈だった男へ復讐を遂げる。その復讐としてドイツ軍は逮捕されていたレジスタンス構成員の銃殺を遂行しようとする。さらにはラヘル自身が裏切り者としてレジスタンス組織により復讐の対象となってしまう。終戦後にさえ戦争協力者達にはサディスティックな復讐行為が同国民からなされ、さらに終わることの無い復讐の計画が練られる…といった按配に、様々な復讐が変奏曲のように繰り返される物語なのだ。ここで描かれるのは正義=連合軍と悪=枢軸軍といった単純で二元論的な戦争の物語なのではなく、どこまでも終わることの無い復讐の連鎖と、それを生み出す人間の暗く嗜虐に満ちた情念なのだ。そして映画の冒頭と終盤で描かれるイスラエルに安住した主人公の”現在”、1956年は、第2次中東戦争、すなわちスエズ危機が勃発した年であり、《復讐》による殺戮がどこまでも終わることが無いということを暗に示す。
ポール・ヴァーホーヴェンお家芸である確信犯的な下劣さと冷笑に満ちたニヒリズムは今回も健在だ。バイオレンスとセックスとグロテスク。この人がなんでホラーを撮らないのか不思議なぐらいであるが、実の所、ホラーよりも現実のほうが一層恐怖と不条理に満ちている事をこの人はよく判っているんだろう。しかしこのような物語でありながら映画自体は実に良質のエンターティンメントとして完成されているのだ。それはひとえに運命に翻弄される主人公ラヘルの悲劇に彩られた人生に対して十分に感情移入できるということと、そしてラヘル役であるカリス・ファン・ハウテンが実に魅力的に描かれているからだろう。さらに脱出劇やスパイ活動、レジスタンスの抵抗運動など、アクションやサスペンスの要素が存分に盛り込まれ、裏切りに次ぐ裏切りによる最後まで読めない展開に、観客は目が離せなくなってしまう。これはヴァーホーヴェンの新たな代表作となる予感さえする。

■俗であり聖であるもの
この映画でヴァーホーヴェンは「白でもなく黒でもなくグレイな物を描きたかった」と言っている。オランダ人レジスタンス組織は正義の為に戦いながら終戦後は私刑を平然と行う無頼の徒と化した。ラヘルの標的だった本来敵である筈のドイツ軍大尉は、ユダヤ人と知りつつラヘルを愛し、犠牲者を減らす為にレジスタンス組織と密約を結び、その為に銃殺を言い渡される。このように人は俗であり聖であり、残酷でありながら慈愛も持ち合わせる。どちらというのではなくその総体が人間なのだろう。そして人間はその時自らがどういう立場で、そのバイアスがどちらに振れているかによって己を定めてしまう存在なのだろう。これまでひたすら露悪的に人間内面のどろどろとした暗部を描いてきたヴァーホーヴェンであるが、この映画ではラヘルの愛や生きることへの渇望といった、負の部分だけではない描写が際立つ。ヴァーホーヴェンは人は本来利己的で欲望に満ちた存在であるという性悪説的な映画を多く撮ってきたけれど、この映画では決して否定的な要素のみを撮っている訳ではない。勿論肯定的でもない。人の持つ業の深さを描きながら、このように人は揺れ動く存在であると彼は描写する。それもまた人間の性なのであり、それに目を背けるべきではないのだと。

■Black Book trailer
http://www.youtube.com/watch?v=DIklvGsU7bM:MOVIE