民主主義と復讐

ぶっちゃけ、ギタギタにしてやりたいような奴はオレにもいたりするんだよな。だけど実際そんなことを実行に移すのは社会的なリスクを別として、確実に自分自身の精神を蝕むのは目に見えてるんだよ。しかしだからこそフィクションというのはあって、妄想の世界で遊ぶのは自由だし誰にも咎められない。アブナイ妄想だけたっぷりして「あ〜あ、でもこんなこと本当にやる奴はやっぱ頭おかしいよね」と自分の中で相対化する。なんかそんな風にして精神衛生に努めてるな。だからホラー映画とか犯罪小説って、実はかなり健全なんだよ!
ただ生き死にの問題になると別だよな。強殺云々は仮定の話だとしても、ある犯罪行為に対する量刑が第三者から見てもどう考えたって軽いだろ、なんて思うことはあって、しかし法治国家であり民主主義国家である以上、司法の判断を無視した個人の断罪行為はつまるところ私刑になってしまうんだよ。単純な例だと「あんな奴死刑だ!」って吠えまくる奴ね。被疑者がその犯罪の内容により民主主義的な裁量を適応するのが不適切だ、というなら、逆に自分自身を守る法律とそれを尊守する民主主義は、自分自身に適応されなくとも文句は言えない、という事になってしまうんだよな。でもこの間の通学時の子供達に車突っ込んで何人も死なせた事件は、判決が数年の禁固刑だったが、これじゃあ親達は可哀想過ぎるよ、とオレなんかも憤った事は確かだよ。
じゃあここで何が問題なんだろう?と考えると、それはオレ等というのが社会的であるのと同時に個人的な存在であるという事なんだよな。…でもこれ以上話を展開させるとキリが無いでこの辺で唐突に止めておこう!
あと忠臣蔵の時代というのは封建主義の時代であり西欧的な個人主義は明治において”輸入”された概念でしかないから、今オレ等が考えるような”復讐”とはまた違った意味合いがあるのな。なによりあの時代は”家”はあっても”個人”は存在しないのよ。だから忠臣蔵の討ち入りはある意味”家”に忠実であったが為に行われたことであり、だからこそ英雄的な扱いを受けるお話なのよ。そしてまた”仇討ち”も”家”の為に行われるのよ。つまりそこに”個人”の思惑は存在しないのね。なにしろさっきも書いたようにあの時代は”個人”という概念が存在しないんだよ!だからよく時代劇である”個人の考えを無視した政略結婚”というのは有り得ないんだよな。…これも話はこれ以上展開させません!
さて帰依するものかあ。ええとこれも書くと長くなりそうだからまたまた割愛!ってか今酔っ払ってるし。