不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス

不肖・宮嶋南極観測隊ニ同行ス (新潮文庫)

不肖・宮嶋南極観測隊ニ同行ス (新潮文庫)

一部では結構な人気のある報道カメラマン、不肖・宮嶋南極大陸体験記。オレの爛れた友人である「う」から借り受けたのだが、彼も大のお気に入りらしい。


この宮嶋、知性ではなく体力と精神力のみで文章を書いている人で、この体験記でもゴキブリ並みの生命力と思考力でひたすら下世話に南極での過酷な体験を書き綴っている。南極くんだりまで行って宮嶋の書くことといえば食欲と性欲だけである。しかし当たり前といえば当たり前だが、南極は半端じゃなく寒い。そんな極限状態では人間はシンプルな欲望のみに生きるというのは頷ける。まあ、勿論越冬隊員達はきちんと実験や観測を行っているのだろうが、これは科学リポートなんかではなくて部外者の宮嶋が見た極寒の地の体験記であり、そこでひたすら生存することのみを念頭に書かれた手記なのでこうなっちゃうのであろう。なにしろ零下40℃だの50℃だのという世界。その中を3週間もかけて基地から基地へ移動する、なんていう段階から恐るべきものがある。


面白い記述は山ほどあったがなにより驚いたのは南極条約による廃棄物の禁止についてだろう。ゴミを捨ててはいけないというだけではない。調査隊員の排泄する糞尿、これまで持ち帰らなければならないらしい。だからこれら排泄物は全てドラム缶に保管されているのだとか。でもまあ、移動中の野糞(というより氷糞だな)は許されるらしいが。そして勿論、誰もが一度は念頭に浮かんだことがあるだろう「南極1号」の存在もここで触れられる。極地用人体模型とか何とか言う名目で船荷目録に入っているらしいがな!不肖・宮嶋は極寒の世界で生きる観測隊員のために雪上車にわざわざこの”人体模型”を括り付けて基地へと入場だ!


なにしろ全編こういったシモな話で占められているが、兎に角是が非でも生きる、生き延びる、というギリギリのラインをキープするということは案外重要なことなんだと思う。今普通に日本の社会で生きているなら”サバイバル”なんて概念は存在しない。生きるか死ぬかなんて事はそうそうあることではない。そして”生”の意味というのはどこかで希薄になる。生きる、という生々しさを忘れて観念的な生を生きること、養老孟司氏の言うところの「脳化した社会」で生きることが当たり前になる。肉体性を忘れた観念はどこか薄気味悪いし、簡単に病んでしまう。別にわざわざ極限の世界に生きる必要はないが、少なくとも人は人間であると同時に一個のけだものでもあるという事は忘れていたくない。それは、自分の体が血肉で出来ているという感覚であり、そして精神というのも、血肉を兼ね備えている、という認識だ。それは、言ってしまえば、世界と自分が、生で触れ合っている、という感覚なのだと思う。


なんかさあ、知性とか情報量とか物凄い優れているんだろうけど、裏をかえせばひ弱な書生、みたいなのって見飽きたんだよな。この不肖・宮嶋みたいにギトギトに生命力の塊みたいな男ってのも、やっぱりいてくれないとバランス悪いんじゃないか。日常生活で一緒にいたらうざったい奴だとは思うが、何かあったときにはこんな奴が頼りになったりするものだ。そして、「何が何でも生き残る」という意思は、今みたいな社会では結構必要なことじゃないかとオレなんかは思う。