ソータイセー理論

もう11月も半ばであります。多分この調子であっという間に12月を迎え、忙しい忙しいと言いながら年を越してしまうのでしょう。
『Hibi』の大塚さんが「みんな、「時間がたつのを忘れる」ような楽しいことが好きじゃないすか。で、うまくいったら、時間がスグ過ぎるでしょ。それって「はやく人生を終わりたい」ってことになんない?」と言うようなことを書かれていて、でもオレは刹那に生きる事は人生が永遠だと考えるようなことなんじゃ無いかな、とちょっと思ってしまった。
子供の頃は一日が長かったような気がする。学校の授業はいつも信じられないぐらい長くて、友達と遊ぶ放課後の校庭にはなかなか夕暮れが訪れなくて、家族と食べる夕飯は今の10倍ぐらい時間を掛けてたような気がして、その後に観るTVの番組はいつまでたっても終わらなかった。ような気がする。夏休みは子供にとっては楽しいもののように思われるけれども、本当はいつも退屈を持て余していて、逆に一日が早く終わらないかな、などと思ってたりしていた。
子供の時間は長く、大人の時間は短い。これは歳を経るごとに確信めいてくる。
この相対性について、昔、ちょっとインチキ臭い理論を考えてみたことがある。
例えば10歳の子供の一日は、彼の10年分の時間の中における24時間である。彼の全人生の10年を分母とし、24時間を分子とする。
そして30歳の大人の一日は、彼の30年分の時間の中における24時間である。彼の全人生の30年を分母とし、24時間を分子とする。
この二つを比べた場合、明らかに30歳の大人の、その人生における一日は、10歳の子供の一日より、短いのである。(インチキ理論なのでつっこまないように)
大人になると一日の行動なんて殆ど手癖足癖で出来るようになってくる。オレだけなのかもしれないけれど、発見することや学習する事は子供の頃と比べればどんどん減ってくる。発見学習したように思った事も、実はそれまでの体験の単なる微調整だ。そうして日々はルーチンワークになってゆく。
ただね、毎日、思いもかけない事ばかり起こればいいかというとそうではなく、そんなだったりしたら逆にセーシン的に参るんじゃないかな。
若年性痴呆症という病気があって、これは20代30代で痴呆の症状が出てしまうものなのだそうだけれど、この症状になる人と言うのは別にいつも一日中ボーッとしてたあげく痴呆になった訳ではなくて、バリバリと毎日忙しく仕事していた人だったりするそうなのですね。頭を使ってそうに見えて、仕事で忙しいというのはルーチンワークが緻密になっただけで、実は脳の一部しか使ってなかったりする。それで痴呆に…ということらしい。なるほどなあ、などとは思いましたが、逆に毎日アクシデント続きだったら、今度はストレスで逝っちゃいますよ。
ああまた話しが逸れた。いつもダラダラ書いているからなあ…。
かくいう自分も一日はたいした事なんて起こりません。いや、仕事ではガタガタしてますが、仕事をしている自分は別の人格になっているので、あそこで何が起ころうと自分の私生活とは関係無いなどと思っているある意味ダメな大人ではあります。多分仕事では心を動かすことが何も無いからなのではないかと思う。そしていちいち心なんか動かしていたら仕事にならない。あそこでの自分は正確な機械である必要があるからで、機械が気まぐれなど起こすと事故しか起こりません。
ただ、だから人間に戻った時に少しは心を動かしたい。さっきの若年性痴呆症では、予防として指先を動かしたりパズルを解く事を薦めているけれど、オレは全然違うと思う。心が動かないから、頭は「ああ、もう動かないくていいんだな」と判断して停止してしまうんだと思う。ついでに言ってしまうと、オレは「頭を柔軟にするパズル」とか何とかいうものが嫌いで、それは「その柔軟になった頭で何をするんだよ」などとつい捻くれたことを考えるからだ。
歳を経ていけば、多分毎日はこれからもどんどん短くなってゆく。にも拘らず、やりたいことがまだまだいろいろあって、それで今日も睡眠時間はどんどん減っていくというわけです。なんだか不合理だよなあ。せっかちなせいか、「時間が掛るものは時間を掛けるメリットがあるか」などとつい考えてしまうんだよな。これ、貧乏性って事なのかなあ。ただね、あとはやる気の問題なんだが、これがなんとも…。(ヘタレ)