宇能鴻一郎傑作短編集『アルマジロの手』を読んだ

アルマジロの手―宇能鴻一郎傑作短編集―/宇能鴻一郎

アルマジロの手―宇能鴻一郎傑作短編集―(新潮文庫)

彼は「手が……手が……アルマジロの手が」というばかりだったのです――。不気味な緊張感を孕む怪奇な作品「アルマジロの手」、美しい姫君に恋をした狸の哀切「心中狸」、むさぼり喰らう快楽にとり憑かれた男の無上の幸福「月と鮟鱇男」の他、性と生の悲しみがきわまる「海亀祭の夜」「蓮根ボーイ」、濃厚ないのちにあえぐ「鰻池のナルシス」、そして甘美な爛熟世界に堕ちた男を描く傑作「魔楽」を収録。官能の深みを文学に昇華させた七編。

去年読んだ宇能鴻一郎の短編集『姫君を喰う話』は久しぶりにガツンと来る文学短編集だった。そこで描かれるのは人間の生の根源である「性への希求」だ。それは甘美であり時として背徳的であり、祝福であると同時に罪業となって人を苦しめる。人間は一個の動物として性を希求するが、逆に人間であるばかりに動物的に荒ぶる性に懊悩し、遂には破滅さえしてしまう。そして人である限り誰もこのアンビバレンツから逃れることはできない。宇野はそれを、露悪ではなく、飾る事もなく、あくまで正面から見据えて描くのだ。

その宇野の新しい短編集が『アルマジロの手』となる。作品は1967年から1984年までに書かれた7編、文学作家から官能小説家へと転身する過渡期にあった作品群であるのだろう。今回の短編集でも「生と性」にまつわる様々な物語が綴られるが、鮮烈な印象を残した『姫君を喰う話』よりもこなれた、大衆小説の味わいがある作品が並ぶ。また、これは編集部で狙ったのか、アルマジロ、狸、鮟鱇、海亀、鰻と、動物にまつわるタイトルとテーマを持つ作品が多く、さらに旅行と食べ物にまつわるエッセイ『味の旅 舌の旅』を思わせる「食へのこだわり」の描かれる作品も散見した。そう、「性」と同時に、「食」もまた人間の根幹にかかわる事柄なのだ。

作品を紹介する。アルマジロの手」はメキシコ紀行文から始まる物語が次第にある男女の猖獗を極める諍いへと様変わりしてゆく。「心中狸」は美しい姫君に恋をした化け狸の物語だ。一見馴染み深い民間伝承と思わせながら、実はこれは「不可能な愛」に血を吐くが如くに苦悩する魂の物語なのだ。「月と鮟鱇男」では冴えない風体の大食漢の男が若い娘に不倫した挙句の地獄が描かれる。「海亀祭の夜」では不器用極まりない友人の実家を訪ねた男がそこでさもしく遣り切れない体験をしてしまう。

「蓮根ボーイ」終戦間もない炭鉱の町で貧困と肺病にあえぐ一人の少年の寂しく悲しい物語だ。この作品などは宇野の実体験が織り交ぜられているのだという。「鰻池のナルシス」はある夫婦が旅先で知り合った奇妙な家族連れと共に大ウナギを喰う羽目になる、という一風変わった話だ。奇妙な家族連れには儚げな美少年がおり、その少年が正体を明かす部分から物語は性にすがり生を生きる者の哀切に満ちたものへと変わってゆくのだ。インドを舞台にした「魔楽」ではこの土地とこの土地で生きる青年の魔性にとりこまれてしまった男の悲しい運命が描かれる。この物語で描かれるのはホモセクシュアルな同性愛なのだ。

日本の地方都市・観光地を舞台にした「心中狸」「鰻池のナルシス」「海亀祭の夜」ではそれぞれの地方色を非常に豊かに描いており、これも日本の様々な土地に足をのばした宇野ならではの体験が実を結んでいるのだろう。「アルマジロの手」におけるメキシコ、「魔楽」におけるインドといった舞台も、これも宇野が実際に足を運んだと思わせるリアリティに満ちている。そこに登場する市井の人々のいじましくもまた物悲しい日常の描写が、またしても生の実相をありありと浮かび上がらせるのだ。

また、「アルマジロの手」「心中狸」「魔楽」では、文化人類学と民間伝承に関わる詳細で広範な知見が作品をより深みのあるものにしている。宇野のこういった部分こそが彼を異色作家たらしめ、他の追従を許さない独特の作風を生み出す元となっているのだろう。これら宇野が作家として「武器」にするものが多数垣間見られるといった部分でも、興味深く味わい深い作品集であった。