『姫君を喰う話』と『味な旅 舌の旅』/宇能鴻一郎の著作を2冊読んだ

宇能鴻一郎の著作を2冊読んだ

宇能鴻一郎といえばいわゆる「官能小説家」という認識をしていたし、官能小説に興味が無いオレにとってはこの先読むことの無い作家だろうと思っていた。正直に言えば、今からすれば大変失礼だけれども、「単なるエロ小説家」程度に見ていた。しかし以前、どこかのウェブサイトでたまたま彼のインタビューを読み、その思いもよらぬ人間的魅力に感嘆してしまったのだ。オレは思った、「このおっさん、面白過ぎる……」と。

どう面白いのか、それはエピソード満載のインタビューを読んでもらうことにして、なにしろオレの「宇能鴻一郎=官能小説家」という固定観念が全て覆されてしまったのだ。いや、確かに優れた官能小説家であるのだろうが、このおっさんはそれだけの人物ではない、「只者ではない感」が圧倒的にしまくっていたのである。

こうなったら彼の著作を読むしかない。丁度「宇能鴻一郎リバイバル」の波が押し寄せていた時期だったようで、このインタビューもそれに合わせたものだったのだろうが、オレはそれに乗せられる形で2冊の著作を読んでみることにした。というわけでその2冊、『姫君を喰う話』と『味な旅 舌の旅』の感想を書いておこうと思う。

姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集/宇能鴻一郎

姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集 (新潮文庫)

煙と客が充満するモツ焼き屋で、隣の男が語り出した話とは……典雅きわまる戦慄の表題作。巨鯨と人間の命のやりとりを神話にまで高めた芥川賞受賞作「鯨神」、すらりとした小麦色の脚が意外な結末を呼ぶ「花魁小桜の足」、村に現れた女祈禱師が引き起こす異様な事件「西洋祈りの女」、倒錯の哀しみが詩情を湛える「ズロース挽歌」、石汁地蔵の奇怪な物語「リソペディオンの呪い」。宇能文学の精髄6編を選んだ。

短編集『姫君を喰う話』は宇野が官能小説家に転向する以前の1961~1970年に描かれた純文学作品6篇とエッセイ1篇が収録されている。そしてこの6篇の文学作が圧倒的だった。それらは「生の根源」を生々しくもまた迫真の筆致で描いていたのだ。そして宇野は「生の根源」を描くのと同時に「生」の原動力である「性の本質」へと果敢に分け入り、その官能と、その裏腹にあるアンモラルとを、臆することなく文章に叩き付けていた。

「性への希求」は誰にでもあり、恥じるべきものではないにせよ、人間社会においてそれは巧妙に隠匿され、あるいは象徴的に言い換えられ、あからさまにするのを忌避されている。しかしだからと言って人は自らの「性への希求」を決して否定することはできない。こうして人は欲情を持ちながら欲情をあからさまにできないアンビバレンツに置かれ、時にそのアンビバレンツの中で「欲情する自己」を歪められてしまう。いわゆる変態行為や性犯罪はその中で起こってしまうものなのだろう。

それらはアンモラルな行為として社会的に糾弾され断罪されることとなるが、宇野の作品があくまで注視するのは、アンモラルであることそのものではなく、そこへと至る「人の業」であり、そうせざるを得なくさせてしまう強力な「性の本質」だ。それは遡れば「生の根源」に肉薄しようとする作業であり、そしてそれが宇野小説の精髄となっているものなのだ。

例えば「姫君を喰う話」では場末のモツ焼き屋で卑猥に内臓肉を食らう男の描写が一転、中世日本における虚無僧と巫女との禁じられた恋と悲痛な結末へと変貌する。「花魁小桜の足」は江戸期長崎出島の隠れ切支丹である花魁が、磔刑の待つ異端審問において成したある行為を描く。「西洋祈りの女」ではひなびた寒村にやってきた都会的な装いの占い女が、野卑な村人たちの淫蕩な視線に曝され事件へと雪崩れ込んでゆく。「ズロース挽歌」は女学生のズロースに執着する男が至る忌まわしい犯罪と悲しい顛末の物語だ。「リソペディオンの呪い」は鍾乳洞のある村に生まれた小人の青年の物悲しくもまた数奇な運命が描かれることになる。

これらの物語に共通するのは先に描いた「性への希求」であり、そして「アンビバレンツの中で歪められた”欲情する自己”」である。それはアンモラルな行為であり、性犯罪そのものを描いてもいるが、だがしかし宇野が真に描こうとするのは、あくまでその根源にある「性と人間」なのだ。

その中で「鯨神」はまた一味違う、小説家・宇能鴻一郎の力量を余すところなく発揮した畢生の文学作だ。捕鯨で栄える九州の漁師村を舞台に、多くの村人を殺した巨鯨とその復讐に燃える村人たちとの確執と戦いを、圧倒的な情感と生々しい筆致で描いた壮絶なる作品である。いわば『白鯨』の日本版とでもいえる異様な情念に満ちた物語だが、宇野はそこに土俗の臭いを持ち込み、さらに神話的なるものへと昇華しているのだ。宇野が東京大学大学院在学中に書かれ芥川賞を受賞、さらに映画化もされた作品である。

味な旅 舌の旅 新版/宇能鴻一郎

味な旅 舌の旅 新版 (中公文庫)

芥川賞作家にして、官能小説の巨匠。唯一無二の作家・宇能鴻一郎が、日本各地の美味・珍味を堪能しつつ列島を縦断。喰いつき、口にふくみ、汁をすすり、飲み下す……食も官能も生命力の源。貪婪な食欲と精緻な舌で味わいつくす、滋味豊かな味覚風土記。新たにエッセイ「男の中の男は料理が上手」を収録。 〈巻末対談〉近藤サト宇能鴻一郎

さてこちら『味な旅 舌の旅』は「旅エッセイ」となる。日本交通公社(現・JTB)が刊行していた冊子『旅』に連載されていた紀行文をまとめたもので、筆者が様々な地方に旅し、その土地ならではの料理に舌鼓を打つという内容。文学短編集『姫君を喰う話』とはまた別の、軽妙洒脱で博覧強記な文章を楽しむことの出来るリラックスした1冊だ。

筆者が訪れる土地も北は北海道から南は奄美大島まで、東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州と、それはもう遍く足を運び、その土地の名所観光地を訪れ名物銘酒を余すところなく口に入れるという、至れり尽くせりの内容となっている。それもただ単に一般に名前の知れた名物というだけではなく、足を使ってこれはという店を自ら探し出し、地元の口コミで観光客向けでない店にまで訪れ、「美味いもの」にとことん執着してエッセイをしたためているのだ。

さらにこの筆者、美味いもの好きだけあって食に対する知識も豊富で、また相当の健啖家であり、文字通り朝から晩まで料理を食べまくり、毎回満腹感の幸福に呻きながら章を終えるのだから恐れ入る。その料理にしても、決して贅を尽くしたもの、珍しいものという訳ではなく、その地元ならではの、素朴で、さらに言えば量がたっぷりのものを好むというから好感度が高い。またエッセイでは、宇野センセならではの色っぽい出会いもちょっとだけ描かれていて、その辺がまた楽しかったりする。

ただし本書の元となる書籍が1968年の刊行であり、その後今回新版としてエッセイと対談が新たに収録されてはいるが、基本的に55年前の旅行記となるわけだから、ここで登場する旅館や店舗などの施設、さらにそこで行われたサービスや料金、供された料理なども、全て50年以上前の情報として読むべきだろう。とはいえ逆に、50年以上前の日本の観光地がどういうものであったかを眺めるといった読み方がまた楽しいといえるだろう(2021年に収録された近藤サトとの巻末対談によると、エッセイに登場する老舗の幾つかは未だ店を開き繁盛しているのだという)。