金鉱利権を巡る壮大なる暴力の叙事詩/映画『K.G.F Chapter 1,2』

K.G.F Chapter 1,2 (監督:プラシャーント・ニール 2018、2022年インド映画)

『RRR』を超えインドNo.1大ヒット作品となった映画『K.G.F』

あらん限りの富を手に入れたい。映画『K.G.F』はインドに生まれた貧しい少年が、見果てぬ夢を可能にするためあらゆる手段を使って暗黒街をのし上がってゆき、遂に強大な王国を築いてゆくまでを描いたバイオレンス・ノワール・アクションである。タイトルの『K.G.F』とはインド・カルナータカ州に存在するコーラーラ金鉱(Kolar Gold Fields=KGF)の略。膨大な金を有するこの金鉱をめぐり、主人公ロッキーと多数の強欲なマフィア組織、さらにインド政府までが乗り出し、謀略と殺戮に満ちた凄まじい闘争を繰り広げてゆく物語、それが『K.G.F』なのだ。

主人公ロッキーに「ロッキン・スター」の異名を持つカンナダ語映画のトップ俳優ヤシュ、ヒロイン役をシュリーニディ・シェッティが演じ、さらに『SANJU サンジュ』のサンジャイ・ダット、『ランガスタラム』『ミルカ』のプラカーシュ・ラージが共演として参加。監督・脚本にカンナダ語ニューウェーブ映画のトップランナー、プラシャーント・ニール。映画は『K.G.F Chapter 1』(2018)『同 Chapter 2』(2022)の2部構成となっているが、2022年に公開された『Chapter 2』は同年公開されたあの『RRR』の興行成績を抜き、同年のインド内世界興収トップ作品として記録されたというとんでもない作品なのだ。

『K.G.F Chapter 1,2』:物語

【物語:Chapter 1】1951年、スーリヤワルダンはコーラーラ近郊に金鉱(Kolar Gold Fields=KGF)を発見し、採金ビジネスに乗り出す。スーリヤワルダンの一族が莫大な富を得る一方で、金鉱で働く人々は外部から遮断された環境で奴隷のような扱いを受けていた。同じ年に、スラム街で1人の少年が生まれる。その少年ロッキーは10歳で母を亡くして天涯孤独となり、生きるために裏社会で働き始める。やがて最強のマフィアとして恐れられるようになったロッキーは、ボスからKGFの実質的支配者であるスーリヤワルダンの息子を暗殺するよう命じられるが……。

K.G.F: CHAPTER 1 : 作品情報 - 映画.com

【物語:Chapter 2】コーラーラ金鉱(Kolar Gold Fields=KGF)の支配者となったロッキーは、新たな金鉱を発見し事業をさらに拡大していく。そんな中、死亡したと思われていたスーリヤワルダンの弟アディーラが現れ、KGFの奪還に乗り出す。アディーラに恋人リナを誘拐されたロッキーは救出に向かうが、アディーラに撃たれ瀕死の重傷を負ってしまう。さらにアディーラは金輸出を妨害してKGFを孤立させ、ロッキーを窮地へと追い込んでいく。

K.G.F: CHAPTER 2 : 作品情報 - 映画.com

カリスマヒーロー、ロッキー爆誕

インドの街々に暴力の嵐が吹き荒れる。2部構成5時間半に渡って描かれるのは、マフィア組織同士が睨み合い、凄まじい暴力の応酬が続く光景だ。血が血を呼び殺戮が殺戮を生み、累々たる屍が画面を覆い尽くす。しかしこの作品は決して陰惨で殺伐とした暗黒虚無映画ではない。それはこの映画が、主人公を一人のヒーロー、一人のカリスマとして描いているからだ。そういった部分で、同じバイオレンス映画でも韓国ノワールの残虐さや無常感とは一味違う。むしろ「スーパーヒーロー映画」と呼ぶのが相応しい。

主人公ロッキーは旋風児だ。匂い立つような色気を備え、ユーモアを理解し、虐げられた者を目にすれば、深い哀憫に身を震わせる。しかしひとたび敵が迫るなら、ましらの如く身を翻し、鬼神の如く拳を繰り出し、一騎当千の剛力でこれを壊滅させる。映画『K.G.F』はロッキーのこの無敵の強力さ、喜怒哀楽溢れる深い人間性、スーパーヒーローとしてのカッコよさ、これらをとことん見せてゆく。総じて、あたかも現人神のようなカリスマ性を観る者の心に強烈に焼き付けてゆくのだ。

インド映画、特に『バーフバリ』や『RRR』に代表される南インドの映画作品、そしてスーパースター・ラジニカーントや大将ことヴィジャイの出演する作品は、どれも「一人の強力なカリスマ」を徹底的に描くことで人気を博している。この『K.G.F』はカンナダ語映画となるが、これら「一人の強力なカリスマ」を描くインド映画の系譜に属する映画という事ができるだろう。それはカリスマであり現人神なのだ。

壮大なる暴力の叙事詩、大いなるカリスマの神話

ロッキーの出生は苦しみと悲しみに満ちていた。極貧の中、優しくもまた厳しい母の手一つで育てられたロッキーだが、その母はロッキー10歳の時に病に倒れる。以来裏社会に出入りし頭角を現してゆくロッキーは巨万の富を得るために邁進する。それもひとえに貧困への怨嗟、母の死への悔恨、そういった社会への怒りがあったからだ。

『Chapter 1』のハイライトとなる金鉱採掘現場では、殺しを依頼されたロッキーが採掘労働者に姿を変えて潜入するが、そこで見たのは冷酷な監視者に虫けらのように扱われる奴隷状態の人々だった。そしてロッキーの怒りが爆発する。凄まじい暴力描写が噴出するが、しかしこれは正義と人間性のための戦いなのだ。ここでロッキーのヒーローとして、カリスマとしての姿が強力に印象付けられる。

『Chapter 2』では民衆の英雄となり一大王国の帝王となったロッキーの姿が描かれるが、ここに最大の敵アディーラが登場し、ロッキーの帝国を破滅へと追い詰める。さらにインド政府が軍事介入し、一触即発の戦争状態へと雪崩れ込んでゆくのだ。『Chapter 1』でロッキーの無敵の魅力を描いて観る者を虜にし、『Chapter 2』でそのロッキーをあわやという危機へと陥れて観客をハラハラさせる。これは実に心憎い構成だ。

こうして一人の男の悲哀と憤怒、憐憫と慈愛、貧困との闘争を溢れんばかりの情感で描き、胸のすくアクションと怒涛の展開でもってこれでもかと心揺さぶる映画、それが『K.G.F』なのである。それは壮大なる暴力の叙事詩であり、大いなるカリスマの神話なのだ。

『Chapter 1,2』2作合計323分!

最後に上映時間の事を。それぞれ公開年の違う2作を日本では一挙上映!ということになり、傑作の誉れ高い2作を待たされることなく一度に観ることができるというのは実に粋な計らいだと思っている。ただしそこはインド映画、それぞれの上映時間がとても長いのだ。『Chapter 1』が155分、『Chapter 2』が168分、合計で323分となり、つまりは2作合計で5時間半余りあるということになるのだ。1本1本別の日に観るならまだしも、これを1日で劇場でハシゴするとなると、優に半日は映画館の座席に座っていることになる。

映画は観たい。しかし半日はちょっとキツイ。かといって2日掛けるのもそれはそれで億劫だ。という訳でオレは意を決し一挙に観ることを選択した。トイレは大丈夫なのか?飲まず食わずで平気なのか?そもそも既に老境に達しているオレの体力は持つのか(意外と映画鑑賞は体力を使うのだ)?様々な懸案事項はあったのだが、実際観てみるとそれは全て杞憂であった。5時間半余りの映画ではあったが体感的には『Chapter 1』が2時間ほど、『Chapter 2』となると1時間半、合計で3時間半程度の体感時間であった。即ちそれだけ面白く、精神も肉体も覚醒状態となった状態で映画鑑賞していたのである。