宮崎駿の描く「リアリティのダンス」/映画『君たちはどう生きるか』

君たちはどう生きるか (監督:宮崎駿 2023年日本映画)

オレと宮崎駿

ジブリ映画は好きかと言われたら、まあだいたいの作品は観ているので好きな方なのだと思う。これが宮崎駿作品となると、殆どの作品をBlu-rayで揃えたのでかなり好きなのだろうと思う。好きか嫌いか以前に、一人の映画監督として世界レベルの活躍をし成果を残した監督であることは間違いはない。そもそもオレがアニメーションというものを観始めた幼い頃から、『ホルスの大冒険』『長靴をはいた猫』といった宮崎駿参加作品はどこか別格だった(ただしこれら東映動画作品は宮崎は原画担当)。

宮崎駿」という名前をはっきりと認識し始めたはやはり『ルパン三世 カリオストロの城』からであり、決定打となったのはTVシリーズ未来少年コナン』だった(なにしろ全部公開時リアルタイムで観ているんです)。そして「この人物は只者ではない」と恐怖すら感じたのはコミック版『風の谷のナウシカ』だった。宮崎駿はただ才能溢れるアニメ監督なのではなく、確固として揺るがない強烈なテーマ性を自らの裡に持つ恐るべき映画作家なのだと思い知らされた。

来宮崎アニメは公開されたら必ず観ていたし、個人的な評価は様々なれどどれも思い出深く様々な事を語りたくさせる作品ばかりだった。とはいえそんな宮崎も既に80代(観ているオレも60代)、引退宣言を繰り返しつつまた撤回しながら、最新作となるアニメ作品が遂に公開された。タイトルは『君たちはどう生きるか』、吉野源三郎の同名小説からインスパイアされタイトルも一緒だが、内容は小説とは別なのだという。しかし公開日までそういった情報とポスタービジュアル以外は一切公表されず、謎だらけのままオレは公開日に映画館に馳せ参じた(観たのはIMAX版)。そうしてスクリーンに映し出されたのは、少年を主人公とした目くるめくような冒険活劇ファンタジーだった。

少年を主人公とした冒険活劇ファンタジー

物語冒頭の舞台となるのは太平洋戦争の最中にある日本の、関東の外れと思われる緑豊かな別荘地、そこに主人公少年・牧眞人と家族とが疎開してくる。眞人は空襲で母を失い、軍需工場を営む父はその母の妹を新たな妻として迎えていた。母を失った悲しみと慣れぬ生活環境に鬱屈した日々を送る眞人はある日、奇妙なアオサギと出会う。そのアオサギは人語を操り、「母があなたを待っている」と眞人に告げる。そして眞人はアオサギの導くまま、どことも知れぬ異世界へと冒険の旅に出掛けることになる。そしてその冒険とは、自らの生と真に対峙するための旅でもあったのだ。

このアオサギがポスタービジュアルに登場するあの不思議な生き物だ。さらに眞人が冒険の旅に出る切っ掛けとなるのは死んだ母が疎開先の屋敷に残した小説『君たちはどう生きるか』からであった。ここまでが公開前までに露出させていた情報の辻褄合わせとなる。そしてその先は、宮崎駿がそのイマジネーションをほしいままに炸裂させた一大ファンタジーアドベンチャーが展開することになるのだ。

万華鏡のように踊る宮崎アニメモチーフ

ここからの展開の多くは書かないこととするが、観ていてまず気付かされるのは、これがこれまでの宮崎アニメの総集編の如き作品であるという事だ。物語冒頭はまず『風立ちぬ』だろう。それはその後『となりのトトロ』のような大自然に囲まれた『魔女の宅急便』の如き洋館へと場所を移し、さらに『千と千尋の神隠し』を思わせる異世界へと旅立つことになるのだ。

そこには『風の谷のナウシカ』のような奇妙な植物と生物が棲み、『天空の城ラピュタ』の飛行石のように感応する石が登場し、『もののけ姫』に出てきたような小さな精霊が蠢き、アオサギは『紅の豚』のようになにがしかの化身で、異世界で出会う魔法使いの如き存在は『ハウルの動く城』を思わせ、眞人に襲い掛かる軍人の身なりをした異世界生物は『ルパン3世カリオストロの城』に登場するカリオストロ憲兵で、ここでの舞台となる古城もまた『カリオストロの城』であり、そこで眞人がアクションを繰り広げ遂にはランニング姿となってしまう部分で『未来少年コナン』へと至るのである。まあこじつけもありそうだが、なんとも凄まじいではないか。

こうして、これまで製作された全ての宮崎アニメのモチーフが万華鏡のように踊り、寄せては返す波のように、あるいは走馬灯のように現れては消えてゆくのだ。それはあたかも宮崎アニメの集大成であり、どこか最終章だと思わせもするのだ。

孤独な少年が母親を取り戻す物語

ただし異世界を旅する主人公少年・眞人には、これまでの宮崎アニメの如きヒロインが登場しない。少女は登場するがロマンスの対象では全くない。あたかもそれはシータの存在しないパズーであり、マダム・ジーナの存在しないポルコ・ロッソであり、サンの存在しないアシタカのようなものだ。それは少女=女性という、自らを対象化し補完してくれる存在のいない少年=男性の姿であり、そしてそれは主人公眞人が愛の不在とそれへの渇望に為す術もない孤独な少年であるということに他ならない。しかしその愛の不在を補完するのは本作では「母」なのである。

この作品が宮崎の自伝的要素を盛り込んだ作品であることは宮崎のプロフィールを辿れば一目瞭然だろう。父が航空機製作所の経営者で戦時中には疎開していたこと、幼い頃に母を亡くしていたこと。本や動画といった空想的なものに惹かれる少年だったことは映画におけるファンタジー世界への旅立ちと呼応するのだろう。宮崎は彼の現実において様々な空想的な物語を創出していったが、今作『君たちはどう生きるか』が自伝的要素によって成り立った作品であると考えるなら、そこで描かれるファンタジー世界は、宮崎の半生を遍歴したものでありその写し絵と捉えることができるだろう。その多くを解釈できる程オレは宮崎の半生を知りはしないのだが、しかしこれが「母親を取り戻す」物語であることは作品内ではっきりと言及されており、それは即ち、宮崎が幼い頃に亡くした母親を、作品の中でもう一度取り戻すことを描いたものに他ならないのではないか。

宮崎駿の描く「リアリティのダンス」

世界的カルト映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーの自伝的映画作品『リアリティのダンス』は、ホドロフスキーの半生に壮大なイマジネーションを加味することによって、自らの家族の物語を再構築した作品だった。そこでは、現実においては抑圧的だった父を家族愛に満ちた父に、不幸に塗れていた母を慈愛に満ちた聖母として描いていた。それは現実のことではないにしても、ホドロフスキーの持つ溢れんばかりのイマジネーションは、それを要求していたのだ。そしてイマジネーションとは、味気なく惨めな現実を、豊かなものに変容することのできる最良にして最強の武器なのだ。

宮崎はこれまで、「観る者の心に真に訴えかける最良のアニメーションを作る」ために、そのイマジネーションとアニメーション技術を徹底的に駆使してきたアニメ作家だった。しかし今作『君たちはどう生きるか』において宮崎は、あくまで私的な立ち位置からこの作品を構築していた。ただし「母親を取り戻す」というその物語は、そのままでは単なる自己満足と自己完結に至ってしまう。そこで一個の物語作品として成立させるために宮崎が選んだのが、宮崎アニメの総集編的なファンタジー世界の中に「母親を取り戻しそこに生かす」ことだったのではないか。そしてそれが決して容易いことではないからこそ、主人公少年=宮崎は、困難な冒険の旅へと敢えて挑んだのだ。

自伝的な作品である事、あくまで私的な夢想を実現する作品である事、それをここまで大々的に盛り込んだ作品である事、これはやはり、宮崎にとって自らのアニメ作家人生の終端であると認識しているからこそ遣り遂げた事なのではないか。そのせいなのか、この作品は、宮崎からこの作品を見る我々への、最後の手紙のような作品のように思えてならないのだ。だからこそこの作品は宮崎作品の集大成的な、あるいは総決算棚卸的な作品であり、どこか最終章だと思わせもしたのだ。これが本当の最期なのかあるいはまたまた引退撤回があるのかは神のみぞ知ることだが、しかし真に優れたイマジネーションが自らを救う最高の武器であることは、これまでの宮崎アニメがそうだったように、この作品からも十分伝わってきたではないだろうか。