スティーヴン・キングの最新長編ホラー『異能機関』を読んだ

異能機関(上)(下) / スティーヴン・キング(作)、白石朗(訳)

異能機関 上 (文春e-book) 異能機関 下 (文春e-book)

異能の少年少女を拉致する謎の機関〈研究所〉。彼らは子供たちの超能力を利用して何を企図しているのか。抜群の頭脳を持つ12歳の少年ルークは知恵をめぐらせ、不穏な施設からの逃亡計画を温めはじめる……。

キングの新作長編が訳出されたというからこれはもう読まねばならないのである。それは運命(さだめ)であり義務であり生活習慣であり3度の飯と同じぐらい重要な事なのである。しかも「スティーヴン・キング作家生活50周年”直前”記念」とかいうなんだか微妙な惹句まで付けられているではないか。とはいえ直前だろうが直後だろうがキングは出たら読む、というのが鉄則であるのは間違いないのである。

さて今作『異能機関』は本国で2019年に刊行された『The Institute』の全訳となる。タイトルの「異能機関」とはなにか。それは全米から超能力を持った少年少女を拉致監禁し、薬物や拷問でその超能力をさらに強化させて敵国の要人を暗殺させるという謎の国家機関並びにその研究所を指すのだ。主人公はその機関に拉致された12歳の少年ルーク。彼は恐ろしい拷問を繰り返す研究所からからくも逃げ出すが、機関の冷酷な追手が執拗に彼を追跡するのである。

こんな展開から思い出されるのはキングの初期傑作長編『ファイアスターター』だろう。この作品も超能力を持った少女が謎の機関に追い回される物語だった。拉致された少年少女の友情、心の交流といった部分は『IT』や『スタンド・バイ・ミー』を思い出させるだろう。主人公少年とある青年とがバディとなる展開は『呪われた町』や『ドクター・スリープ』を連想させるだろう。その敵というのが冷徹で狡猾な存在というよりは下品で愚劣で粗暴であるという点では「退職警官ホッジズシリーズ」に似ているかもしれない。

とまあ言ってみれば「いつものキング」なのである。特記すべきユニークな設定や物語性はないにせよ、「いつものキング」の手癖足癖と持ち前の卓越した筆致と圧倒的な読み易さとで、とことんぐいぐいと読ませてゆくという超大衆的娯楽恐怖小説なのである。そういった部分で新しさこそないのだけれども、読了後の満足感はしっかりと得られる作品となっている。

確かにこの作品、物語展開に相当冗漫な点があるのは否めない。上巻では研究所に拉致された主人公ルークが嫌らしい方法でいたぶられるシーンが延々と続き、ここまで長くする必要があったのか怪訝な気持ちにさせられる。起承転結で言えば「起」が上巻全部となるかもしれない。やっと逃走してもその描写がまた長く、この物語きちんと終わるのか?と心配になってくる。だから上巻を読んでいる最中はこれは凡作かもしれんなあと思ってしまったぐらいだ。ところがひとたびクライマックスに差し掛かると、流石キングと唸らされる凄まじいカタストロフが襲い掛かり、急展開に次ぐ急展開に舌を巻くことになる。そして本を閉じた後に「あー面白かった!」と思わせるのだ。

こうして全体を眺めると前半の冗漫ともいえる長さは必然だったと気付かされる。要するに溜めて溜めて溜めた挙句のカタルシスなのだ。そこでは鬱屈した監禁の情景と陰惨な拷問シーンが延々と続くが、この「幼い子供の監禁拷問」というのも考えてみるなら相当にショッキングだし描写としてもタブーすれすれとは言えないか。キング小説の映像化作品は多々あるが、「幼い子供の監禁拷問」を映像として描くのは特に欧米では相当に拒否反応が出るのではないか。そういった点と、この研究所における少年少女の精神的交流が結局クライマックスにきちんと活きてくるのだ。つまり最後まで読んで、無駄のない小説だったと気付くのだ。巨匠だけのことはある。

やはり巧いな、と思わせたのは超能力の扱い方でありその描写の仕方だ。「超能力を持った少年少女」とは書いたが、実は一人一人はたいして強力な力を持っていないのだ。主人公にしてもアルミのピザトレイを動かせる程度で、その力で何ができるわけでもないのである。そういった少年少女ばかりだから誰も研究所から逃げ出すことができない。つまり超能力=万能では決してないのである。その彼らがどうやって悪逆非道な”機関”に挑んでいくのか、という部分にこの物語の醍醐味がある。特に超能力を使用する際の「粒粒が見える」といった描写は実にキングらしく、後にこれが凄まじい幻想性を帯びたものとして読む者を圧倒する。これなどはキング作品『不眠症』のサイケデリックな異次元描写を思い出させた。