ムーンライト・シャドウ (監督:エドモンド・ヨウ 2021年日本映画)
オレは邦画をまるで観ないのだが、この『ムーンライト・シャドウ』はちょっと気になったので観てみることにした。
「ちょっと気になった」というのはこの作品が吉本ばななの同名短編小説『ムーンライト・シャドウ』が原作だからだ。と言ってもオレが吉本ばななファンだというわけではない。デビュー作の『キッチン』を読んだくらいだ。ただ、映画化された『キッチン』(監督:森田芳光 1989年)や、やはり吉本ばなな原作映画『つぐみ』(監督:市川準 1990年作)が結構好きで、この『ムーンライト・シャドウ』も気に入るだろうか、と思ったのだ。ちなみに原作は単行本『キッチン』に収録されており、吉本ばななの最初期の作品と言っていいのだろう。
【物語】さつきと等は導かれるように出会い、恋に落ちる。等の3歳年下の柊と、柊の恋人ゆみこをあわせた4人は意気投合し、多くの時間を共に過ごす。時には、ゆみこが気になっているという「満月の夜の終わりに死者ともう一度会えるかもしれない」という不思議な現象「月影現象」についても語り合うなど、4人は穏やかで幸せな日々を送っていた。しかし、ある時、等とゆみこが死んでしまう。突然の別れに打ちひしがれ、悲しみに暮れるさつきと柊。愛する人を亡くした現実を受け止めきれないさつきと、そんな彼女を心配する柊。それぞれの方法で悲しみに向き合おうとしていた時、2人は不思議な女性・麗と出会い、それをきっかけに少しずつ日常を取り戻していくが……。
で、最初に感想を書いちゃうと、こりゃちょっとダメだったな。数10ページの短編小説を長編映画として肉付けする際に加えられたエピソードやキャラクターの背景が逆にどれもノイズになってしまい、結局全体的に間延びした印象しか与えていないのだ。物語は「愛する者の死を乗り越える」ことが中心的なテーマとなるが、そこに「死者と対面できる」という「月影現象」なるものを持ち込む。原作では淡いファンタジーとしての設定だったが、映画ではこれが単なる「オカルト話」にしかなっていないのだ。「不思議な女性・麗」自体が既にしてオカルティックな存在にしか見えない。さらに映画では早い段階から「月影現象」について言及されるが、これも唐突であり、また結末を最初から予見させて興醒めしてしまう。
『キッチン』を映画化した森田芳光が『キッチン』映画化に際して原作からの変更点を幾つか挙げていたのが記憶に残っている。登場人物の一人には人物造形のリアルさを出すため職業が与えられていたこと、原作ではある登場人物が死亡するが、「死は生々しいものであるため」映画では死なせなかったこと、など。要は「小説」と「映画」では同じ物語でも「見えるもの・見せるもの」が違ってくるため、「原作小説」を「映画」に寄せる必要がある、ということだ。これは舞台作品を映画化した時にどこか窮屈に見えてしまうことがあるのと一緒だ。
つまり「小説」の持つ「読者の想像力にゆだねる」形の描写を、「映画」という全てが「あからさまに見えてしまう」メディアにどう落とし込むのかが映画製作者側の手腕となるのだ。しかし映画『ムーンライト・シャドウ』ではそれが上手くいっていない。単なる感傷や感情過多になることは辛うじて避けられているが、登場人物らに血肉を持ったリアリティが乏しく、描かれる背景も唐突だったり説明不足であったりしている。ただ、主演を演じた小松奈菜は様々な表情を演じ分けられる非常に存在感のある俳優であり、彼女の存在それ自体がこの作品を淡く美しいものとして見せることができていた。映像や音楽もそれほど悪くなく、この辺りはマレーシア出身の監督エドモンド・ヨウならではの感性なのだろう。
ところで、原作小説自体は刊行当時の1988年に読んだきりだったので、この機会にもう一度読んでみることにした。するとこれが結構いいのだ。昔読んだときには「少女漫画チックなファンタジー」だとしか思っていなかったのだが、それだけのものでは決してなかった。まずなにしろ、吉本ばななの文章がいい。男性的なまでに力強い。登場人物たちには迷いがない。鮮烈で確信に満ちている。彼らは誰もが懸命に自らの忌まわしい運命を乗り越えようとできる限りのことをする。くよくよしない。でも、それだけでは打ち勝てない事もある。そして物語はそこにフィクショナルな救いの手を差し伸べる。そして吉本の「物語」は、「物語」それ自体が生のままならさを救済するものである事に明快な自覚を持って描かれるのだ。それが「物語」の「マジック」であるという事を。そこがいい。
残念ながら映画それ自体には大きな魅力を感じることはできなかったが、逆に吉本ばななという作家の真価を30数年ぶりに認めることとなった。そういった部分では映画作品にも大きな意義があったと言えるかも知れない。