■蠅の王 / ウィリアム・ゴールディング
未来における大戦のさなか、イギリスから疎開する少年たちの乗っていた飛行機が攻撃をうけ、南太平洋の孤島に不時着した。大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、しだいに、心に巣食う獣性にめざめ、激しい内部対立から殺伐で陰惨な闘争へと駆りたてられてゆく…。少年漂流物語の形式をとりながら、人間のあり方を鋭く追究した問題作。
ノーベル賞受賞歴もあるイギリス作家、ウィリアム・ゴールディングが1954年に発表した問題作『蠅の王』を読んだ。なんで読んだのか?というと、オレの大好きなSFホラーコミック『漂流教室』や望月峯太郎の『ドラゴンヘッド』への多大な影響がうかがえるし、スティーブン・キングですらその影響を述べていたりするぐらいだからだ。その辺りでモトネタをきちんと確認したくて、随分前から「読んどかなきゃなー」と思っていたのだ。
今回『蠅の王』のテキストとして選んだのは新潮文庫から出ている平井正穂訳のもの。英文学研究家でもある平井正穂の訳はミルトン『失楽園』でも接したことがあったが、格調が高いのと同時に分かり易い訳文だった。とか言いつつ実際は新潮文庫の古本を相方が持ってたので借りて読んだというのが本当のところだが。
『蠅の王』の物語は近未来の世界大戦の最中、疎開中のイギリス少年たちを乗せた飛行機が南海の孤島に遭難したところから始まる。生き延びた10数人の少年たちは救助を期待しながら自給自足の生活を営み、最初それは上手く行くかに見えた。しかし少年グループ同士の対立は次第に深刻の度合いを深め、いつしかそれは殺意へと発展し出すのだ。
平たく言うなら『蠅の王』の物語は「絶海の孤島に取り残された子供たちが最後に殺し合いを始める物語」ということができる。十分ショッキングな内容だし、ある意味ホラーサスペンス的な物語の様に取り沙汰することもできるが、しかしこの作品の本質にあるのはホラーサスペンス的側面では決して無い。むしろ(というか言うまでもないことだが)、読んでいてその文学的側面において非常に優れた作品性を感じた。
オレが文学を語るのは100年ぐらい早いのだが、それでもやはり「ああやはり文学だな」と思えたのはその描写のきめ細かさと的確な表現、時として心を鷲掴みにして放さない、人間存在への深く核心的なフレーズだったりする。それとは別に、物語の持つ高度な寓意性のあり方にもそれを感じた。
『蠅の王』は一見シンプルな物語構成と具象的な描写の背後に、実に深い寓意性を擁している。例えばこの物語は「孤島に遭難した飛行機に乗っていた少年たち」を描くが、具体的にどう遭難したかは書かない。遭難したのが少年だけで、大人や女性/少女は登場しない。その孤島は過ごしやすく嵐や止まない豪雨も無く、果物は食べ放題、少年たちは病気も怪我も無く、ひょっとしたら無限にここで生活できるのではないかとすら思わせる。後半から島に棲む豚の狩猟が始まるが、他の動物は殆ど描かれず、また、豚の狩猟はするが海で魚介を採取する様子は全く描かれない。
これらについて「リアリティがない」と言いたいのではなく、実は作者は巧妙に、島の中に物語が必要とするもののみを配していることがうかがわれるということなのだ。そしてこれら「物語が必要とするもの」とは、作者が意図した寓意へと導くためのものなのだ。ではその作者の意図した寓意とは何なのか。
……とか言いつつ、ここで「はい、これが作者の意図した寓意の本質ですッ(キリッ)!」とやりたいわけではない。そういうことではなく、様々な読み方が出来て、様々な意味が汲み取れるといった形の、多義性のある寓意が本作の面白さなのだと思う。
例えば何故登場するのが少年ばかりなのか?ということについて、それは少年の無垢さとか無原罪性とか、逆に無知ゆえの愚かさとか経験の無さとか、「少年のみ」ということについては男権性の歪みの胎芽であるとか、あるいは物語をシンプルにまとめる為の方便であったとか、解釈の仕方は様々に膨れる。
そして彼らが最後になぜ殺戮という最悪の選択しかできなかったのか、ということについても、やはりそれは子供ゆえの愚かさなのか、それともそもそも人間の本質は愚かだという事なのか、あるいは殺戮を善しとしない主人公との対比を描くことで人間が持つべき尊厳を描こうとしたのか。
「豚の狩猟」という血生臭い行為についても、それは原始的退行を意味するのか、生贄の祭祀を示したものなのか、などなど考え付く。では彼らが生贄にした本当のものはなんだったのか。物語では屠られて木の枝に刺された豚の首が「蝿の王」と呼ばれる事になるが、この魔族の王の名が屠殺された豚の首に付けられる、という事はどういう意味合いとなるのか。
そして宗教的に言うならどうなのだろう。孤島はそれは、創世記の楽園だったのか。確かに少年たちは最初「蛇」を恐れていた。それはその後「獣」という名の漠然とした恐怖に変わった。「獣」に怯え騒乱に至り最後に殺戮へと走る少年達の姿は楽園追放を意味するのか。しかし当初から主人公たちはこの島から救出を願っていた。それは楽園からの意図的な逃走なのか、あるいは「孤島=モラトリアム」からの脱出であり、それを拒む狩猟チームは成長を忌避した者なのか。
書き出すとキリがなく、さらにどれにも当てはまりつつ、正解は無いのだと思う。むしろ「これはなんなのだろう?なぜこうでなければならなかったのだろう?」と考える事の汲めど尽きせぬ広がりに、考えることの有意義さに、この物語の面白さ、興味深さがあるような気がした。そしてそれが寓話というものの本質なのかもしれない。
余談となるが『蠅の王』はこれまで2回映画化されている。1つ目はピーター・ブルックス版(1962年)、2つ目はハリー・フック版(1990)となる。なぜかピーター・ブルックス版の日本版DVDジャケットは楳図かずおが担当している(下のAmazonリンク参考)。