カンニングという名の階級闘争/映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』

■バッド・ジーニアス 危険な天才たち (監督:ナタウット・プーンピリヤ 2017年タイ映画)

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超秀才少女を中心とした高校生グループによる大規模なカンニング事件を描く青春クライムドラマである。物語は中国で実際に起こったカンニング事件をモチーフにしているという。そしてこの映画、タイで製作された作品なのだ。

物語の主人公の名はリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)。優秀な頭脳を認められ名門高校に特待生として迎え入れられた彼女だが、家計の苦しさをいつも憂いていた。ある日、已むに已まれず親友であるグレース(イッサヤー・ホースワン)のカンニングに手助けしてしまった彼女は、その手際の良さを知った金持ちバカ学生パット(ティーラドン・スパパンピンヨー )に高額の報酬と引き換えに集団カンニングを要請される。家計の足しにと引き受けてしまったリンだが、カンニングビジネスは見事に成功、そして遂にアメリカ留学の為の大学統一入試「SITC」においてカンニングを成功させるためシドニーへと飛ぶことになる。

この作品の見所となるのはまずそのカンニング方法の面白さだろう。予告編で見る事ができる「ピアノの運指を利用したキーサイン」にも度肝を抜かれるが、本編ではまだまだ様々なカンニング方法が披露される(だからあとは観てのお楽しみ)。しかし重要なのはカンニングのサインを送ることになる主人公少女が超秀才であるという点だ。

物語において彼女はどのテストでもスラスラと問題を解いてゆき、それをカンニンググループにサインとして送るのである。つまりリアルタイム進行のカンニングであり、テスト前日に職員室に忍び込んで……などというのとは訳が違うのだ。とはいえクライマックスでは「完璧なはずの計画」に少しづつひびが入り、あたかも完全犯罪の瓦解を描くクライムサスペンスの如き手に汗握る怒涛と緊迫の展開を迎える事になる。人によっては胃が痛くなりそうになるかもしれないほどだ。

しかし「ユニークなカンニング方法」だなんだといっても結局はれっきとした不正行為である。要するに悪事である。それが出来心ならまだしもグループとなり金銭を授受しあまつさえ数度に渡り繰り返すとなると既に確信犯的な犯罪行為である。この「アンモラルである題材」であること、さらにそれが「未成年の行為であること」にどう落とし前を付けようとするかが今作の本質となってくる。

主人公リンは頭脳優秀とはいえ、家計の苦しさとそれをおくびにも出さず彼女を支援する父親の隠れた苦労に引け目を感じていた。特待生として授業料が免除になったにも関わらず、裏では父親が多額の寄付金を学校側に供出していたことにも理不尽さを覚えていた。また、名門進学校である高校には多数の富裕層の子息が通っており、「成功とは金でどうとでもなること」を目の当たりにさせられていた。彼女は優秀であり、そのための努力も惜しまなかっただろう、しかし年若くして既に彼女は、いかに優秀であろうとも努力を惜しまなくとも、この社会ではどうにもならないことを身をもって知ってしまっていたのだ。

主人公リンのキャラクターはどこか不透明な所があり、彼女の本来のモラルの在り方が示されることなく冒頭からいきなり「金銭の為にカンニングビジネスを始める」ことになる。ここで彼女自身のモラルの在り方は一切揺れ動くこと無く一気にアンモラルへと振り切るのだが、ここには彼女自身の、己の社会的不平等への【怒り】が、既に心の内に存在していたという事なのだろうと思うのだ。そして「成功とは金でどうとでもなること」が当たり前の裕福な級友たちにあえてカンニング協力し、「しかしその成功は自分=主人公リンがいなければ成し得ないこと」「そんな彼女に裕福な連中がひれ伏すこと」を、彼女はどこか暗い復讐心を持って受け入れていたのではないかと思うのだ。

その心情は主人公リンと、彼女と同じく貧しい片親の元で育ちながらやはり超秀才級の頭脳を持つ協力者バンク(チャーノン・サンティナトーンクン)とのやりとりの中で明かされることになる。リンはバンクに「私たちは負け犬なのよ」と告げる、それはまだ高校生でありながら、リンは自らが、そして友人バンクが、経済的弱者である以上この社会で這い上がることなどできないと痛いほど実感していた証だったのだ。しかし二人が大学統一入試「SITC」カンニング作戦の為シドニーへと飛び、ささやかな息抜きをするシーンで、リンは再びこう言うのだ、「今世界は私たちのもの」と。カンニングを成功させることで世界が我がものになるのではない、カンニングを成功させることで、リンは裕福な連中どもに貧民でしかない自らの圧倒的な才覚を見せつけたかったのだ。

ここで物語は「モラルとは何か」にやっと気づくことになり、「カンニングとは不正であり犯罪である」ことへと揺れ戻るのだが、実のところこれら結論付けは「物語を物語として終わらせるための口当たりのいい方便」に過ぎない。しかも主人公らは「まだ子供」なのである。そういった「収まりのいい結論」には不満を感じるかもしれないが、それよりもオレは、主人公リンの、彼女を演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジンの、常に冷静でありながらもその眼の奥で冷たく燃える格差社会への怒りと階級闘争への意思を、ひしひしと感じて止まなかったのだ。一見「お行儀のいい子」になった彼女は、きっと別の形で再び戻ってくる。大人になり、遥かに真っ当でありながら、しかし強力な方法で。そんな、「物語の先の描かれはしない未来」まで夢想してしまった作品だった。


映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』予告篇