■ボンベイ・ベルベット (原題:Bombay Velvet) (監督:アヌラーグ・カシュヤプ 2015年インド映画)
一人のチンピラがいた。彼の夢は、大物になることだった。
一人の女がいた。彼女の夢は、歌手になることだった。
そして二人は出会う。頽廃の都ボンベイで、歓楽と陰謀の館ボンベイ・ベルベットで。
運命の歯車が大きく狂いだすまで、二人の愛は完璧だった。
I.
ボンベイは、現在はムンバイと呼び名を変え知られる街だ。映画『ボンベイ・ベルベット』はこの街で出会い、愛し合った二人の男女の、死と銃弾にまみれた血の物語である。出演はランビール・カプール、アヌシュカー・シャルマー、ケイ・ケイ・メーノーン、マニーシュ・チョウドゥリー。監督はインド映画界の鬼才、アヌラーグ・カシヤプ。また、インド映画監督として知られるカラン・ジョーハルがほぼ主役級の重要な役回りを演じている。
《物語》60年代ボンベイ。地方から流れ着きここで育ったジョニー(ランビール・カプール)は相棒のチマン(サティヤディープ・ミシュラー)と共にケチなチンピラとしてはした金を稼いでいた。ある日二人は度胸を買われ怪しげな資本家カイザード(カラン・ジョーハル)に雇われることになる。それは殺人、誘拐、脅迫といった薄汚い裏稼業だった。一方、子供の頃から美声を誇るロージー(アヌシュカー・シャルマー)も虐待に耐え兼ねボンベイにやってくる。安酒場の歌姫として糊口をしのいでいた彼女は、クラブ「ボンベイ・ベルベット」のオーナーとなったジョニーと出会い恋に落ちる。しかしそれは、政界大物の脅迫写真を取り戻すためにロージーの愛人が差し向けた罠だったのだ。
II.
アヌラーグ・カシュヤプ監督作品を観て思うのは、彼が「リアリズムの映像作家」であるということだ。出世作『Gangs of Wasseypur』 (2012)やセミドキュメンタリー『Black Friday』 (2007)はまさにそういった作品だが、『Dev.D』(2009)や『Ugly』(2014)では社会の裏側にある醜くおぞましい現実をあえてさらけだし、それを執拗に描こうとする。こういったリアリズムへの執着は、娯楽作品に特化したインド映画作品の中で異色な位置にあるのではないかと思う。逆にそのせいで、自分などは作品に嫌悪感や退屈さを覚えることがあり、カシュヤプ監督作品は決して得意ではない分類に入っていたのだ。
しかしだ。この『ボンベイ・ベルベット』には心底感嘆させられた。個人的にはアヌラーグ・カシュヤプの最高傑作なのではないかとすら思う。インドでは最悪の興行成績で、評価も低いと聞くが、知ったことではない。世界レベルの完成度だと思われるこの作品を貶すのは、単にインド人観客に見る目が無いのだとすら言いたい。
『ボンベイ・ベルベット』に感嘆させられたのは、まずその徹底的に作り込まれた美術だ。60年代ボンベイの街並みを完璧に再現したというセットは、逆に夢のような非現実感を伴う。西洋風にあつらわれた屋敷やホテルの内装は徹底的にインド臭を排除され、クラブ「ボンベイ・ベルベット」のレヴューはここが古き良き時代のニューヨークかはたまた租界地であった頃の上海かと思わされるような豪華さと頽廃とを兼ね備える。男たちは誰もが小粋でパリッとしたスーツに身を包み、洒落者ならではの黒いあくどさを醸し出す。これらは全て、当時のボンベイがインド中の富が湯水の如く集中した世界であり街である、ということを如実に顕す。そうして現出するボンベイの姿は、もはや、インドですらない。これには震撼させられた。
III.
インドでありながら、インドではない都市、ボンベイ。それはいったいなんなのか。それを如実に示す台詞が、劇中主人公によって呟かれる。
"ボンベイから出たいだと?お前は馬鹿なのか?ボンベイの外に何があるのか知っているだろう?《インド》だ。飢えと貧しさにまみれた《インド》という土地だ"
当時のムンバイは再開発により相当の資本が集中した時期だったのだろう。そして富の集まるところにはそれを食らおうとする毒虫も現れる。この作品はそういった時代のアンダーワールドを描くものであるが、同時に、従来的なインド映画のストーリーテリングに背を向け、欧米的なメソッドを視野に入れて映画作りをするアヌラーグ・カシュヤプ監督の、脱インド的な箱庭として構築されたのが『ボンベイ・ベルベット』の舞台となる"ボンベイ世界"だったのではないかと思う。そしてその世界の創造に、カシュヤプ監督のリアリズムへのこだわりが微に入り細にわたり生かされた結果がこの素晴らしい美術ということなのだ。
この作品の魅力のもう一つは徹底的に説明を廃したその演出だ。台詞やモノローグに頼ることなく、幾つかのカットの連なりと、更に故意に描かれないシーンによって、カシュヤプは物語の状況を描き出そうとする。そこから現れる効果は、情緒を否定し目の前の実存だけがごろりと転がる寒々とした非情さだ。ここにもカシュヤプのリアリズムが生かされることとなる。これにより物語は透徹した非情さのトーンで描かれることとなり、やがて訪れるであろう逃れようない悲劇を観る者に予感させるのだ。
IV.
とはいえ、劇中に使われる音楽は調子っぱずれなぐらい俗っぽい。しかしそれが逆にこの映画を(カシュヤプがこれまで作ってきたような)単なる陰鬱なノワールではなく、頽廃と歓楽の街ボンベイを舞台とした娯楽作品たらしめている。血に飢え直情的な主人公はハリウッドのマフィア映画の傀儡のごときであり(まるで『スカーフェイス』みたいだったよ!)、内面の一切存在しないヒロインは綺麗な着せ替え人形以上の役割を与えられない。しかしこれらはあえて通俗を狙ったものだと感じる。
そして通俗だからこそ銃撃戦は『ランボー』でも観ているかのようにどこまでも派手であり、痛快だ。インド映画的な歌と踊りはないにしても、クラブ「ボンベイ・ベルベット」で披露されるハイレベルなレヴューがどこまでも楽しませてくれる仕組みになっている。こうしてみると、映画『ボンベイ・ベルベット』は、カシュヤプ監督なりの大衆的な娯楽作を作りだそうとしたその結果であると思えるのだ。ストーリーの弱さを指摘される作品だが、それはもとから通俗を狙ったものだからだ。しかし、この作品の真の主役は作り込まれた"ボンベイ世界"にある。この"ボンベイ世界"で、登場人物たちの命は陽炎のように現れては消えてゆく。彼らの運命に思いを馳せ、今は無き幻影の"ボンベイ世界"を夢想する、これは、そんな物語だと思うのだ。
ちなみにこの作品は「インディアン・フィルム・フェスティバル IFFJ2016」で日本語字幕付きの公開予定である。自分は予定が合わず、観に行くことが出来ない為に残念ながらDVDでの視聴となった。しかしその完成度は驚くべきものだった。このブログを読んで関心を持たれた方は是非劇場に足を運んでいただきたい。