心に闇を抱えた男と闇そのものと化した男との会遇〜映画『Raman Raghav 2.0』

■Raman Raghav 2.0 (監督:アヌラーグ・カシュヤプ 2016年インド映画)


ムンバイを恐怖に陥れる冷酷な連続殺人鬼と、それを追う警官。しかしその警官もまた、麻薬に溺れ、容易く人を殺す、人の道を外れた男だった。2016年に公開されたインド映画『Raman Raghav 2.0』は、こうした異様なシチュエーションの中で展開されるサスペンス・スリラーである。主演に、近作では『Te3n』(2016)、『Bajrangi Bhaijaan』(2015)に出演のあるインド映画の名バイプレイヤー:ナワーズッディーン・シッディーキー、『Bombay Velvet』(2015)、『Masaan』(2015)のヴィッキー・コウシャル。監督に『Ugly』(2014)、『Gangs of Wasseypur Part1,2』(2012)、『Dev.D』(2008)で知られるインド映画界の鬼才:アヌラーグ・カシュヤプ。

《物語》ムンバイで9人の被害者を出した連続殺人の犯人が警察に投降する。男の名はラーマナー(ナワーズッディーン・シッディーキー)。悪びれるふうでもなく警察に己の犯罪をまくしたてるラーマナーだが、後に監禁されていた廃屋を脱走、警官たちの追跡も空しく姿を消す。警察官ラーガヴァン(ヴィッキー・コウシャル)は捜査を続けるが、彼は麻薬常用者であり、恋人には暴力的で、自らが不利になりそうなら容易く人を殺すような壊れた男だった。ラーマナーは逃走後も警察を嘲笑うように殺人を繰り返し、そして捜査は一向に進展しなかった。そしてラーマナーは次の標的としてラーガヴァンの恋人を突け狙い始める。

『Raman Raghav 2.0』という奇妙なタイトルは、60年代にインドを震撼させた実在の連続殺人犯、ラーマン・ラーガブに由来する。彼は鋼棒を使って殺人を繰り返し、逮捕されるまで41人の被害者の血でその手を染めたという。逮捕後彼は奇妙な言動を繰り返し、精神障害があるとみなされ終身刑を言い渡されたまま1995年に獄中死している。タイトルに「2.0」とあるように、この作品ではラーマン・ラーガブの悪夢を再話することになるが、もともと監督アヌラーグ・カシュヤプは60年代を舞台にしたラーマン・ラーガブのドキュメンタリーを製作したかったのだという。結局予算の折り合いが合わず、現代を舞台としたフィクションとなったが、それにより「連続殺人鬼」に対する抽象的な解釈は深まったと思う。

この作品のユニークな点は「連続殺人鬼」という闇そのもののと化した男を描くのと同時に、それを追う男ですらもが自らの裡に闇を抱えた存在であるといった点だ。同工のインド映画作品として『Badlapur』(2015)があるが、これにはアンモラルではあるにせよ「復讐」という已むに止まれぬ理由付けがあった。しかし『Raman Raghav 2.0』は、行動に対する理由付けなどなくただただ狂気であり、ただただ虚無的なのだ。確かに警察官ラーガヴァンは"父親からの抑圧"といったルサンチマンを抱えている描写が挟まれるが、その常軌を逸した行動の在り方からは、"父親からの抑圧"のみがこの男の魂を歪めたのだとは思えず、このラーガヴァンもまた、ラーマナー同様"その本質にあらかじめ暗い闇を抱えた存在"であるとしか思えないのである。

即ちこの物語は「巨大な化け物」に「自分が化け物であることにまだ気付かない化け物」が出会う、という一種異様な物語であり、決して単純な犯罪捜査ものではないのだ。物語は暗く冷たく狂った展開を迎えるが、「化け物」同士が全篇に渡ってドロドロと瘴気をぶちまあうその描写には人間的要素が皆無である以上感情移入する隙間が存在せず、正直「いったいなんなんだこれは」とかなり引き気味に観てしまった。もともとアヌラーグ・カシュヤプ監督作品は露悪的な作風のものが多く、個人的には苦手な監督でもあるのだが、この作品でも「人間の持つ原罪」をとことんまで突き詰めようとしたのだろう。ただ、露悪的であることが人間の本質に近付くというのは勘違いだし、それに原罪なんて一部のキリスト教の戯言でしかないと個人的に思ってるので、このアヌラーグ・カシュヤプ監督作品もまたしても好きになることができなかった。