百年を遡るある男の理想と挫折と新たなる希望の物語〜『SOY!大いなる豆の物語』

■SOY!大いなる豆の物語 / 瀬川深

SOY! 大いなる豆の物語 (単行本)

有名大学は卒業したものの就職したIT企業を一年半で退社した原陽一郎。バイトと、友人と始めたゲーム制作で食いつなぐ彼のもとに、ある日、仰々しい紋章入りの封筒が届く。それはとある穀物メジャーのCEO、コウイチロウ・ハラの遺産管財人となることを依頼する手紙であった。南米ハラ家のルーツは果たして陽一郎につながるのか。陽一郎の謎解きの旅は、東北地方から満州へ、パラグアイへ、明治から現代へと大きく展開し、世界のすべてを塗りかえ、彼の人生もまた大きく変わっていく。彼を、彼らを動かしたもの、それこそが大豆だった。豆に導かれ、時空をまたいで展開する壮大な物語と、そこに連なる、ある情けない男の崩壊と再生を描く。

I.

日本人作家の小説はまるで読まないオレなのだが(理由はあるが説明がややこしくなるから書かない)、瀬川深・作によるこの『SOY!大いなる豆の物語』は、そのタイトルを見てなにか気になるものがあったのである。いや、オレは別に食うこと以外で「豆」に特別な興味があるわけでもない。そのタイトルの付け方だ。「豆」の物語だろうということは分かる。それは分かる。しかしなぜ「大いなる豆の物語」だけではなくその頭にわざわざ「SOY!」と付けるのだ。これでは「豆!大いなる豆の物語」と言っているようなものではないか。「豆」が被っている。いや間違っているという訳ではない。そうではなく、わざわざ「SOY!」と被せる著者に、どことなく茶目っ気を感じてしまったのだ。!マークからは著者の微妙なポジティビティすら感じる。さらにこの『SOY!大いなる豆の物語』、てっきり豆に関するドキュメンタリーだと思っていたら、実は小説なのらしい。豆の小説?主人公が豆なのだろうか。豆を蒔いたら天まで伸びて冒険の旅に出るのだろうか。そんなわきゃあない。
物語のほうは↑で引用した"BOOKデータベース"のコピペを読んでもらうといい。主人公はどこにでもいそうな27歳の青年だ。で、この青年・原陽一郎の元にある日南米に拠点を置くとんでもない大企業から封書が届くところから物語がはじまるのだ。企業の名はSoyysoya、世界を股に掛け従業員10万人を擁するという巨大な穀物流通商社なのだという。そんな大企業が平凡な青年にいったい何の用事があるというのか。実はSoyysoyaのCEOであるコウイチロウ・ハラなる人物が亡くなり、その遠縁と思しき原陽一郎クンに遺産管財人の任が委託されたというのだ。大企業CEOの遺産!こりゃスゲエ!もう人生ウヒャウヒャじゃん!などとオレなんかは思ったが、実際に遺産管財人というのは「相続人の存在、不存在が明らかでないときに相続財産の管理をする者」のことらしく、要するに「オメーもしくは誰かがホントに相続人かどうか調べやがれ」というものなのらしい。で、この原陽一郎クンは、「遺産は絶対俺のもん!ウヒャウヒャ!」とかいうことなど決して思いもせず、「困った…メンド臭い…」という限りなくネガティブな思いでコウイチロウ・ハラと自らの接点を探るべく、原家のルーツを辿るため生家のある東北へと飛ぶ、というのが冒頭である。

II.

そしてそこから展開するのは、百年を遡るある男の理想と挫折と新たなる希望の物語である。「新たなる希望」といってもスターウォーズではない。だが砂漠の惑星タトウィーンから宇宙へ飛び出したルーク青年と"ある男"とはどこかで被るのかもしれない。物語では、その男がなぜどんな理由で理想を掲げたのか、そして何に挫折したのか、さらになにをよすがとして新たな希望を燃やしたのかが徐々に明らかにされてゆく。その大元になるのは日本における「東北」という地の特殊性である。その苦難と苦闘の歴史である。そしてそれを、コウイチロウ・ハラと思しき人物だけでなく、原家のルーツに内在した物語としても描いてゆく。つまり、主人公・原陽一郎クンは、コウイチロウ・ハラの足跡を辿りながら、同時に、自分が誰であり、何であるのかを、自分の血の中にどのような歴史が眠っていたのかを、次第に知ってゆくというわけなのだ。
その歴史性を含めた物語の中心にあるのは穀物を代表とする「食」である。その食を生産する上での歴史であり文化であり、それがこの現代においてどのような問題点を抱えているかということである。そしてこの物語において「食」に象徴して代入されるのが【豆】であった、というわけなのだ。作者はこれらを、膨大な情報と該博な知識から詳らかにしてゆく。そしてそれはただ羅列されるのではなく、チャランポランな主人公・原陽一郎クンがその探求の旅の中で次第に明らかにされてゆく事実として描かれ、そして読者はその追体験として、大いなる豆と食と東北の歴史の全貌を知ることとなるのだ。

III.

こんなこの小説を一言のジャンルで言い表すのは難しい。若者の内面的成長を描いた教養小説でもあり、食の生産とそれにまつわる東北の地の遍歴を描いた歴史小説でもあり、グローバル化した食流通の弊害を描く現代的な社会派小説であり、それら全てを俯瞰した情報小説でもある。総じて言うなら、それら全てが絡み合い関連し合った、「今ここにある世界と、この世界がどのようにして成り立ったのか」を描く複合小説だと思えばいいのかもしれない。
それは作者の、登場人物全てにおける、詳細に余りある描写からうかがえるのだ。この物語では、殆どどの登場人物であろうと、ここまで書く必要があるのかと思わせる量の、その人物のあらん限りのバックボーンが書き込まれる。それらは物語大筋とは関係ないにせよ、しかし、確かにこの世界にその人物は存在しており、そして世界の何がしかの部分とコミットしている、ということを描き出そうとしているように思えてならないのだ。我々は一人で生きているのではなく、他人とのなにがしかの関わりによって生きている。そして、世界は、歴史は、これら一人ひとりの「個」の繋がりによって生成され成り立っている。主人公・原クンのルーツ、【豆】を代表する作物のルーツ、そして東北のルーツ。それら全ては「何がどう関わりあって"今"があるのか」ということだ。「グローバル化」という巨大で融通の利かない冷たい自動機械の中に世界は今あるのかもしれないけれども、しかしそれでも我々は、お互いの小さな繋がりの中で生きている、生きていける存在であり、その関連性の中にこそ「人の生」はあるのだ、作者は、この小説の中でそれを言い表したかったのかもしれない。

SOY! 大いなる豆の物語 (単行本)

SOY! 大いなる豆の物語 (単行本)