バイセクシャルの父、レズビアンの私〜『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』

■ファン・ホーム ある家族の悲喜劇 / アリソン・ベクダル

ファン・ホーム ?ある家族の悲喜劇?

ファン・ホーム ?ある家族の悲喜劇?

セクシャルマイノリティとして、文学を愛する者として、共感を覚えながらもすれちがい続けた父と娘。互いをつなぐ微かな糸を、繊細にして静謐な筆致でたどる、ある家族の喪失と再生の物語。アイズナー賞、最優秀ノンフィクション賞受賞、全米批評家協会賞最終候補作品、アングレーム国際漫画フェスティバル優秀作品賞ノミネート。

亡き父の思い出を、娘は語り始める。家族は、ペンシルベニアの片田舎で葬儀屋を営んでいた。父は、英語教師だった。父は、心から文学を愛していた。父は、常にスタイルに拘っていた。父の死は、自殺だったのかもしれなかった。そして父は、バイセクシャルであり、その娘である私は、小さな頃から、レズビアンであることに目覚めていた――アメリカのコミック・アーチスト、アリソン・ベクダルが7年の歳月を費やして完成させた『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』は、そんなセクシャル・マイノリティである親子同士の共感と孤独を描く、作者の自伝的作品である。
7章から成り立つ物語は、時間軸を交差させながら、"ちょっと風変わりだった"自分の一家を回想してゆく。田舎町にはふさわしくないような洒落た内装とインテリアの家にすることに心血を注ぐ主人公の父は、己の美意識に頑なな男だった。父はフィッツジェラルドとジョイスとプルーストを愛し、主人公もそんな父に感化され、文学を愛するようになる。父と母の関係は冷えており、父の死の直前には離婚の話が持ち上がっていた。そんな母は演劇好きであり、自らも役をこなしていた。いうなればこの家族は、それぞれが、何がしかの仮想や夢想の中が唯一身の落ち着ける場所である、非常に内省的な家族であったのだ。
夢想の中で、人は完全なものになれる。自らの理想とする完璧なものになれる。しかしそれは逆に、現実に対する欠落感の裏返しでもある。その欠落感が強ければ強いほど、人は夢想の虜になり、そして現実と夢想の乖離は、さらに残酷な失望感を人に課すこともある。スタイルと美意識は、人を完璧な物に近づける方便のひとつだけれども、自分を取り巻く全ての世界を自らのスタイルと美意識で覆うことは出来はしない。そんな時たいていの者はどこかで折り合いをつけるものだが、つけられない者に待っているのは苦悩と苦痛だけだ。そして物語の時代はニクソン政権の崩壊前後。セクシャル・マイノリティに対する理解は生まれつつあったが、それも大都市だけだったろう。主人公たちの住む田舎町で同性愛行為はいまだ警察と精神科のお世話になるような時代だったのだ。高雅な美意識を持ちセクシャル・マイノリティであった主人公の父にとって、その世界はやはり生き難いものだったのだろう。主人公の父の死亡の原因が自殺だったのかどうかは明らかになっていない。しかしそれがもし自殺だったのだとしたら、そんな理想と現実の乖離が彼を殺したのかもしれない。
一方、そんな父の背中を見ながら育った主人公は、父の趣味性が単に堅苦しく窮屈なものであることを知っている。スタイル、に彼女は拘らない。彼女は自由でありある意味現実に対してがさつであり、その分強さを持っている。彼女は物心付いたころから自分がセクシャル・マイノリティであることに気付き、そして学生時代にカミングアウトするが、少なくともこの物語の中では、セクシャル・マイノリティであることの苦悩は描かれない。最後まで隠し通さねばならなかった父親と比べ、ここでも彼女は自由なのだ。そんな彼女の性向は、父親の生き方を見て来たからこそではあるが、しかし彼女は決して父の生き方を否定しているわけではないのだ。ただ、彼女は、自分の父は、なぜこうなのだろう、という不思議さでもって父を見つめていた。そして、父は、何故死なねばならなかったのだろう、といつも考えていたのだ。
そんな彼女の父の理解を助けたのは、文学だった。父の愛する文学の、その珠玉の如き一章一章に触れることで、いつしか彼女は、父が見ていたもの、見ようとしていたものを、文章の向こうに垣間見るのだ。そこにはセクシャル・マイノリティ同士の共犯感覚もあったのかもしれないが、やはり二人を繋いだのは文学だったのだ。この『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』は、"ちょっと変わった生き方"を選んでしまった父と娘が、文学を通じてお互いの魂の奥底をみつけあう、その作品自体が文学的な香りに満ちた珠玉のコミックだといえるだろう。