■息もできない (監督:ヤン・イクチュン 2008年韓国映画)
ヤン・イクチュン監督・脚本・主演による韓国映画『息もできない』は貧困、暴力、孤独、そして家族についての物語だ。主人公の一人は取立て屋のサンフン(ヤン・イクチュン)。とにかく殴る、殴る、殴る。口より先に手が出るこの男は、暴力を振るうことを生業とし、普段も誰彼構わず殴り、常に汚い言葉を吐き、世の中なんて少しも面白くねえ、といいたげな顔で町を歩く。サンフンはある日、女子高生のヨニ(キム・コッピ)と出会う。ヨニはサンフンに唾をかけられ、彼に挑みかかってきたのだ。お前のような馬鹿は許せない、と言って。殴りつけるサンフン。しかし、何故かその後二人は、お互いを呼び出し、顔を合わせるようになる。そして…。
殴ることでしか自分を表現できない男と不幸を引きずった女子高生との奇妙な交感。しかしその中にはロマンスの要素が一切無い。お互いの傷を舐めあうような関係のように見えながら、二人は性的な快楽や安寧の中には逃げ込もうとしないのだ。二人の抱える不幸はどこか似通っていた。サンフンは子供時代、母と妹を父親の家庭内暴力で亡くしていた。父は刑務所に入れられたが、現在出所し、サンフンはその父への憎悪をいまだ滾らせていた。ヨニは母を亡くし、父は精神を病み暴力を振るい、弟は学校に行かずただただ荒れ狂うばかりという、崩壊家庭の中にいた。どこにもやり場の無い、苦痛と、苦悩。しかし二人は、お互いのそんな境遇を打ち明け語り合うことを最後まで一切しない。ひりひりとした痛みを胸に抱えているにも関わらず、ただただ最後まで、仮面を被ったまま、他愛の無い日常を共有しあう。
二人はお互いの中に何を見ようとしていたのか。サンフンは、亡くした妹の姿を、ヨニの中に見出したのではないか。ヨニは、こうあるべきだったであろう父の姿を、サンフンの中に見出していたのではないのか。その後二人は、サンフンの姉やその幼い息子と、親密にやり取りするようになる。ロマンスは無いけれども、気安い人々に囲まれた、他愛の無い日常だけのある幸福。その中から二人は、ある種の擬似家族を、その中に見出そうとしていたのではないか。《家族》であることの苦痛と苦悩にまみれた二人が求めたもの、それは、《家族》であることの平和と安寧だったのだ。だからこそ、二人は現実の痛みを、その中に持ち込もうとしなかった。現実の過酷さと熾烈さは、もうどうにもならないところまで二人を追い込んでいた。二人は、そんな絶望の只中にいたからこそ、かりそめでしかない家族の情景の中に、はかない希望を見出していたのだ。
しかし残酷な現実はそんな二人の淡い夢を情け容赦なく叩き潰しにかかる。サンフンの暴力は、それは言ってみれば自傷行為の代替だったのだと思う。周囲に暴力を撒き散らすことで、サンフンは自らもまた傷つけていたのだ。擬似家族の安寧に心を癒されたサンフンは暴力を止めようとする。だが彼がこれまでやってきた暴力は、その代償を最後に彼に求めようとするのだ。痛ましい結末がそこには待っている。けれども、《家族》の姿を請い求めた二人の夢が結実したかのように見えるラストは、夢を見ることが、すなわち希望を持つことが、現実を凌駕するただひとつの手段だということを観るものに伝えるだろう。
それにしても韓国映画というのはとにかく登場人物たちの顔と表情がいい、とかねがね思っていたオレだが、この『息もできない』も、主演の二人の顔が実にいい。サンフンの、田舎くさい、虚無と暴力性に満ちた顔。ヨニの、そのへんのちゃらい女優なんて知っちゃいねえよといわんばかりの、華の無い仏頂面。貧乏や不幸の染み付いた顔。這い上がれない人生だということを思い知らされた者が持つ、諦めと怒りに満ちた顔。貧困と暴力が当たり前のように存在する人生を生きてしまったものの持つ顔。そんな顔を持つ俳優たちが、絶望と希望の狭間にあるドラマを演ずるのだ。韓国映画の深さは、ひとえにこの優れた"顔"のありさまにもあるのではないかと思う。