トランスアメリカ (監督:ダンカン・タッカー 2005年 アメリカ映画)

性同一性障害GIDから女性としてLAで暮らしていたブリーは数日後に性再判定(性転換)手術/SRSを控えていた。そんな彼女の元に掛かってきた電話は、彼女がかつて男性として生活していた時にもうけたらしい息子の存在を知らせるものだった。NYの拘置所に入れられていた彼を引き取った彼女は、自分が実の父親だと言う事を明かすことが出来ないまま、息子と共に故郷への旅をはじめる。タイトル『トランスアメリカ』はこのアメリカの旅を表現したものであると同時にトランスセクシュアル/TSの意味も込められている。


GIDを取り上げた映画ですが、むしろ非常にチャーミングでハートウォーミングな家族愛の映画として観る事ができました。
主人公ブリーは職業もウェイトレスだったり社会的には低い立場の存在です。今までTSを描いた映画ではアーチストであったりショウビズで生きている存在が多かったような気がしますが、ブリーはTSであるということ以外は実に目立たない市井の人です。このように、ことさら大げさだったりエキセントリックにGIDの特殊さを描くのではなく、日常的であり身近に存在しうる問題としてGIDを描かれています。そんな日常性から誰もが共感を受け感銘できる映画として仕上がっていると思います。爽やかで時にコミカルなこの映画の感触は、世間一般の認知度が変化してきた結果が現れたものなのでしょう。


女性の姿で初めて家族と会い、その中で持ち上がる拒否、容認などの一騒動はある意味ベタですが、そもそも家族と言うものはどのように描いてもこのようにベタな物なのではないかと思います。TSの方が観ても「まあこんなもんだよねえ」なんて思われるんじゃないかな。旅の途中で出会うネイティブ・アメリカンの男性との交流などはひとつのマイノリティ同士の共感として見る事も出来るし、TS排斥の動きが強いキリスト教保守の風潮の中で、主人公が敬虔なクリスチャンであるという設定もひとつのテーマになっていると思います。


ブリーが社会に対して抱える居心地の悪さはヘテロの人間にも存在するものです。
「自分らしく生きたい」と思いそれを貫いても、周囲の全てがそれを受け入れるというわけではありません。自分の選択は間違ってはいない、と思いながらも、ブリーは実の息子に自分がTSだと言う事が告げられず、TSのパーティーに紛れ込んでいてさえ、息子には「こんな下品な連中」と言わざるを得ないような、主体と客体の乖離と齟齬は、社会に生きていれば一般人でも味わう事なのではないかと思う。人はその中で処世術として周りに合わせそれがあたかも中庸な立場であるかのように振舞いますが、「自分の考え」=「みんなの考え」が当為であるかのような価値観の押し付けは無言の内に少数であったりユニークであったりする者や考え方を圧殺します。そしてまた少数である者たちもそういった”世間一般”の価値感に計って自ら萎縮してしまいます。この自分でありながら自分で無いように振舞わなければならない居心地の悪さは、GIDに悩む方のみならず誰にでも有り得る事なのではないでしょうか。そういった意味で映画でのブリーの”生きにくさ”の感覚は、特別なものでは決して無いのだとオレは思います。


興味深かったのは女性として生きる男性、ブリーを演じたフェリシティ・ハフマンでしょう。オレは最初この映画の予告編を観た時には、女性ではあるが微妙に女性らしくない演技から男優が演じているとばかり思っていましたが、フェリシティ・ハフマンはれっきとした女性なのです。これにはびっくりしました。女性として生きる男性を演じる女性。ややこしいですが、映像を見ると「この人は肉体的には男性なんだなあ」と思わせてしまう演技が素晴らしかった。これはどこかで男性的に振舞う、というのではなく、女性的であることを意識しすぎて過剰に女性的な振る舞いをしてしまい、逆説的に男性を感じさせてしまう、という演技を目指したものなのだそうです。