真正さの為の戦い〜ジョン・ル・カレ『繊細な真実』

繊細な真実 (ハヤカワ文庫NV)

極秘の対テロ作戦に参加することになったベテラン外務省職員。新任大臣の命令だが、不審な点は尽きない。やがて、作戦は成功したとだけ告げられ、任を解かれる。一方、大臣の秘書官トビー・ベルは上司の行動を監視していた。作戦の背後に怪しい民間防衛企業の影がちらついていたのだ。だが、トビーの調査には官僚たちの厚い壁が立ちはだかる。恐るべきは、テロリストか、それとも国家か?巨匠が描く、世界の新たな闇。

そういえばル・カレの小説を暫く読んでなかった。昔は、処女作『使者にかかってきた電話』(1961)から『リトル・ドラマー・ガール』(1983)までは全作追っかけて、その後『ナイロビの蜂』(2001)を読んだきりだったのだ。やはり冷戦終了がスパイ小説に一旦興味を無くした原因だったのかもしれない。しかし最近『裏切りのサーカス(原作タイトル:ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ)』、『誰よりも狙われた男』、『われらが背きし者』とル・カレ原作の映画化作品がぽつぽつ公開されるようになり、しかもそのどれもが秀作だったので「久しぶりにル・カレ作品でも読んでみっか」という気が起きたのである。そして選んだのが2013年に刊行されたとりあえず今の所の最新作『繊細な真実』。

物語は中盤まで雲を掴むようなもやもやとした状況が続く。冒頭に起こる「作戦」は、具体的に何が起こっているのかがはっきりとは分からない。そのもやもやは、章が変わって別の登場人物が現れても続く。外務省職員の彼は、上司の行動に不明な部分が多いことをいぶかっている。しかしそれがなんの理由でなぜ行われているのかは分からない。もやもやしている。そして彼は、上司に不信を抱き、極秘に盗聴器を仕掛ける。しかし、その内容を聴いても、やはりもやもやしたものでしかない。そして読んでいるこちらとしても、雲を掴むような気分がいつまでも続く。

こういったフラストレーションを冒頭で延々と読者に与えてゆくのはル・カレの手法そのものだ。登場する個々人に、全ての情報が与えられておらず、しかもそれはちぐはぐで、さらに後から偽りであることが発覚したりもする。これらの描写の在り方は、ある意味リアリスティックなものであるとも言える。ル・カレの小説の舞台となる、政府組織、そしてその諜報機関に置かれた登場人物は、全体の、その一部の情報しか持っていない。しかもそれは、誰かが誰かを陥れる為の間違った情報かもしれない。こうして現れるのは、徹底的な不信と疑念である。そして不信と疑念だけで構成された世界の、寒々しいまでの虚無である。その虚無的な情景こそが、ル・カレ小説の醍醐味である。

しかし、主要人物となる者が確定され、事件の全容が徐々に明らかにされてゆく後半から、物語は大きく動き始める。主人公となるのはエリートではあるが政府組織では単なる若造扱いでしかない外務省職員トビー。それと冒頭の作戦に登場し、作戦成功を信じまま引退した老齢の、同じく外務省職員キット。彼らが知るのは組織上層部が関わった民間防衛企業との醜聞だった。彼らはそれを明るみに出そうとする。だがそれを阻止しようとする強大な力が彼らを阻み、暴力と死の恐怖がひたひたと迫ってくるのだ。

この間観たル・カレ原作映画『われらが背きし者』でもそうだったが、この『繊細な真実』でも描かれるのは「力無き者の"真正さ"を巡る戦い」だ。トビーは政府の醜聞など日常茶飯事のこととしてエリートの道を進めばよかったのだ。キットも"真正さ"などにかまけずそのまま豊かな悠々自適の生活を送ればよかったのだ。しかし、彼らはそうできなかった。なぜなら彼らは、その事件の背後に名も無き犠牲者が出たことを知ったからだ。それは人間としての、同情と、共感が、そこにあるからである。それは、【人間的要素】である。そしてクライマックスにおいてトビーが語るこの言葉こそが作者のテーマでありメッセージなのだろう。

戦うのが誰であろうと――神でも、人でも――同じことだ。神と理性的な人すべてが戦って敗れたのは、愚かさなどではなく、純粋に残酷で忌まわしい、他者の利益への無関心と自己利益だけの追求である。

こうして彼らは"真正さ"と"人間らしさ"の為に己の身を危険にさらし、無為に終わるかもしれない戦いに身を乗り出す。だが彼らの存在はあまりにも小さくそして無力だ。そして政府機関に巣食う負の力は一個人ではどうしようもないぐらい強大で狡猾であり、暴力的だ。こうして物語は絶望的な状況ばかりが次々と折り重なり、凄まじいドライブ感を見せながら不安に満ちたクライマックスへと近付いてゆく。

繊細な真実 (ハヤカワ文庫NV)

繊細な真実 (ハヤカワ文庫NV)