45プラス

今日はオレ様のお誕生日なんである。本日を持って45歳となるのであるが、まあこの歳までよく生きながらえたものである。20代の頃は30過ぎたら死んじゃうんだろうな、とか思っていたもんだが。しかし45、四捨五入すれば50ではないか。半世紀である。なんかザマミロ、って感じである。オレのようなバカアホマヌケでも取り合えず50年ぐらいは愉快に楽しく生きられるのである。ザマミロ。その後の事は知らないがな。ザマミロ。だからこれからは、年齢を訊かれたら、「45」なんて半端な数字言わないで「50歳ぐらい」と答えようと思っている。勿論「50歳ぐらい。ドッピューン」とか「50歳ぐらい。チンピョロスポーン」とか頭の悪い擬態語付きでだ。威厳だの年輪だのくそくだらねえ枕詞などいるものか。尊敬なんぞされてたまるか。20代の頃、オレは50過ぎの大人なんぞ妖怪か死に損ないだと思っていた。だから若い連中はオレの事をどんどん妖怪か死に損ないだと思ってもらいたい。まあそれ以前に、どうせ相手にされてないけどな…(ボソボソ)。

とまあ自嘲気味に自分の年寄り振りをあげつらったりしているが、昔から年寄りじみた生活をしていたから、ホントはあんまり変わっていないのかも知れない。実は10代後半で「お前30過ぎに見えるな」と言われるぐらい老け顔の兄ちゃんだったのである。あまりに老け顔だったので、あの頃友人に「エッチな本買ってきてくれ」とよく書店に行かされていた…。「若さが無い」とも言われてたから、見た目も人間性もジジ臭いワカモノだったのであろう。こう考えるとオレは18ぐらいの時からずっとジジイの外見のまま本当のジジイになったということなのであろうか。でも今は「FUMOさん若い」ってよく言われるの!(はあと)”よく”というか”たまに”というか”ごく稀に”というか”なんかの間違いで”というかね…(段々自信がなくなってきている)。しかし呼び名は「ジジくさいワカモノ」から「若ぶったジジイ」に変わっただけだけれどな!

ただジジイでいるほうが楽でいいわ。若いって疲れるんだよ!体力余ってるから余計な事ばっか考えるしな。作家のK・ヴォネガットは、老境に入ってどんな気持ちがするか?という問いに「荒っぽいロデオ・マシーンからやっと下りられたような気分だよ」みたいなことを言っていた。年を経ながら様々な経験や知識を蓄積し続け年齢を重ねれば、人はどんどん高い意識をもてるようになるかというとそういうことは無いと思う。年を経ながら様々な経験や知識を蓄積し続けていても、ある歳を境に衰えていく。蓄積したものはどんどん無くなってゆく。若いころにはいろんな事がしたい、やりたい、と沢山の欲望を持つが、経験の浅さや経済的な理由でままならなかったりする。経験や経済的に豊かになった老境に入ると、そんな欲望は薄くなるか、欲望に見合った体力がすっかり無くなってしまったりする。そういった意味で歳を取るということは理不尽なものだ・・・と昔誰かが言っていた。

しかし欲望も執着も薄れ、驕りも呻吟も怨嗟も無く、草木のように生きるのもそれほど悪いものではない。そして草木のように日差しと雨とかに感謝しながら生きられればいい。これが老境というものである。過去にあったことはどんどん忘れていく。思い出の賞味期限はせいぜい5年前までだ。もとより思い出すほどの過去も無い。歳を経てより強くなる過去の思い出などあり得ない。あったとしても、未熟な頃の思い出というものは、ただ生臭いだけだったりする。だからオレには”懐かしい”という感覚が殆ど無い。オレはただ、今が素敵ならそれでいいじゃないか、という刹那主義者である。そして明日も明後日も、「今が一番素敵だ」と言いながら死ぬまで生きていたい。過去とは、過ぎ去った日の影にしか過ぎない。

と言う訳で嘴が黄色くケツの青い若造どもよ。このオレ様を畏れ敬い奉り小馬鹿にし鼻で笑い唾引っ掛けるような愉快痛快奇奇怪怪な祝辞を山の様に送りたまえ。ええと、あの、みんなこのオレが悪いんですお願いしますこの通りです。

※(ちなみに画像の《GOM》とはGross old man、即ち「きもいおっさん」という意味である。)