ヤマザキマリのエッセイ『貧乏ピッツァ』を読んだ。

貧乏ピッツァ / ヤマザキマリ

貧乏ピッツァ (新潮新書 1018)

貧乏だった。けれど今より贅沢だった――。 17歳でフィレンツェに留学。極貧の画学生時代に食べたピッツァの味が、今でも忘れられない――。トマト大好きイタリア人、ピッツァにおける経済格差、世界一美味しい意外な日本の飲料など、「創造の原点」という食への渇望を、シャンパンから素麺まで貴賤なく綴る。さらに世界の朝食や鍋料理、料理が苦手だった亡き母のアップルパイなど、食の記憶とともに溢れる人生のシーンを描き、「味覚の自由」を追求する至極のエッセイ。

漫画家であるヤマザキマリさんのエッセイは結構好きで、たまにネットで見かけたら目を通している。以前刊行された著書『パスタぎらい』も大変面白く、楽しませてもらった。ヤマザキさんのエッセイの面白さは、若かりし頃に日本を飛び出し、イタリアを始め世界の様々な国に足を運んだことによる体験の豊富さと知見の広さにあるだろう。ジャーナリスティックな視点ではなくあくまでそれぞれの国での生活者としての視点を重んじ、その中で日本人としてのアイデンティティを決して失わず、とても地に足の着いた文章を書く部分が好印象なのだ。そしてなんといってもその豪放磊落なキャラクターが魅力的で、さらに心の中心に大きな家族愛を秘めている部分に共感を得てしまう。

そんなヤマザキさんの今回のエッセイ『貧乏ピッツァ』は、『パスタぎらい』の続編的な、世界を経巡ってきたヤマザキさんならではの食にまつわるエッセイとなっている。食と言っても決してグルメ紀行文では全くなく、『パスタぎらい』にも通じる、海外貧乏メシを始めとするB級グルメ、そして家庭料理の話題となっている。その中で「貧乏ピッツァ」とは何かというと、ピッツァというものが、イタリア貧困生活中だったヤマザキさんにとって安価に作れてお腹がいっぱいになる「貧乏メシ」であったということだ。

確かにピッツァなんてェのはそんな御大層なものではなく、薄く伸ばした小麦生地にトマトソースとチーズを載せ、あとはありあわせの具をトッピングして焼いただけのものだし、ある意味日本のお好み焼きみたいな簡便な大衆食なのは確かだろう。しかしこれが美味い。オレもピッツァ=ピザは第2の主食だった時期もあるほどだし、一時はピザと言えばオレの代名詞だった事すらあった。まあしかし日本の宅配ピザは相当高いんだけどね!

同様に、『パスタぎらい』でも触れられていた「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」も、「貧乏人のパスタ」「絶望食」とまで呼ばれるほどに安価極まるパスタ料理で、オレも若かりし頃からイイ年した今ですら、お財布が厳しい時の定番メニューだ。正直人生で一番作った料理は味噌汁とこのアーリオ・オーリオなんじゃないかとすら思う。

とはいえ『貧乏ピッツァ』は決して貧乏メシ一辺倒ではなく、イタリアのごく日常的な家庭料理も沢山登場する。そしてこれがまた美味そうなんだ。食材的に日本で同じものを作ろうとしても予算がかかりそうではあるが、ここで挙げられていた料理の幾つかはちょっと自分でも作ってみたくなった。特に豆料理関係は、オレは豆料理自体作ったことがなく、今後挑戦しがいのある料理だと感じた。その他著書ではイタリアの実家における家庭菜園の話、栗やメロン、ジャガイモといった食材についての話、日本の牛乳や素麺、お節料理についての話など多岐に渡り、どれも楽しく、時にプッと吹き出してしまうような面白さに満ちていた。

同時にこの著書では、執筆時に重なってしまった新型コロナウィルスパンデミックにより、著しく変化してしまったヤマザキさんの生活、さらにその食生活も描かれ、 共時性も強い。併せてヤマザキさんの亡き母についての思い出についても心を動かされた。食は人間の生の中心であり基本であり、それについての想いもまた強く人間性と関わっている。そんなことを感じさせた著作だった。