ゴダールのSF作品『アルファヴィル』を観た

アルファヴィル (監督:ジャン=リュック・ゴダール 1965年フランス、イタリア映画)

f:id:globalhead:20190511091131j:plain

ゴダールのSF作品『アルファヴィル』を観た

オレはSFが好きである。オレにとって小説といえばSF小説の事だし、映画でもまず好きなのはSFジャンルだ。オレの性格もSFだと言っていい。セコくて(S)フヌけた(F)野郎なのである。まあそんなことはどうでもいい。時間も空間も超越し人や社会が意味と価値観を変容させこれまで誰も見たことの無い生命が息づきこれまで誰も見たことが無い世界が広がる、そんな、想像力の翼を限界まではためかせた物語が好きなのである。

そんなSF好きのオレだが、フランス映画界の鬼才ジャン=リュック・ゴダールのSF作品『アルファヴィル』はまだ観ていなかった。だってなんたってゴダールだぜ。「めんどくせえなあ……」と思う訳である。「訳分かねんだろうなあ……」と思う訳なんである。なにしろオレにはゴダールがよく分からない。シネフィルなる方々になぜもてはやされるのかが分からない。「ここがこう凄い」と説明されてもそれがどう凄いのかすら分からない。あまりにも分からなさ過ぎて自分の知性とか理解力とか知能指数まで疑ってしまい「へえへえ分かんなくてすいませんねえ」などと卑屈に顔を歪めてしまう始末だ。

とはいえSF好きのオレとしては映画『アルファヴィル』を無視し続けるわけにもいかない。いかに面倒臭かろうがつまんなさそうだろうが相手が鬼門のゴダールだろうがSFである以上これは観なければいけないのである。それがオレの務めであり宿命でありそして一つの試練なのである。しかもつい最近2000円代でブルーレイが発売され手に入り易くなってしまったのである。もうこれはSFの神がオレに「グダグダ言ってないでいい加減観ろや」と言っているのに等しい。という訳でオレは覚悟を決めわざわざブルーレイを購入してゴダール映画『アルファヴィル』に挑戦することにしたのだ。

◆銀河系星雲都市アルファヴィル

アルファヴィル』はいわば「スパイSF」とでもいったような物語である。舞台は銀河系星雲都市アルファヴィル。ある日ここに秘密諜報員レミー・コーションが潜入する。彼の任務は行方不明の仲間を捜索すること、亡命科学者ブラウンを救出ないし抹殺すること。そんなレミーアルファヴィルで目にしたのは人工知能アルファ60に支配され人間的感情を剥奪された住民たちの姿だった。

あろうことか、ある意味分かり易いSF映画であり、分かり易いゴダール作品だった。「機械に支配され感情を失った人間」といったSFテーマは特に珍しいものではなく、「はいはい文明批判文明批判」と言ってしまえばそれまでの作品ではある。しかしだ。そういった物語性はあくまで皮相的なものであり、監督自身が描きたかったものが別にあるのであろうことは、映画の「見せ方」を注視するならおのずと伝わってくる。

まず面白いのは、この作品ではSF的セットやSF的ガジェットを一切使っていない、ということだ。「銀河系星雲都市アルファヴィル」とは言いつつ、単にパリの街でロケーションしているだけである。そもそもレミーが「外惑星」からやってきた方法というのは、その辺のよくある自動車で道路を走って、である。宇宙船でも転送装置でもなんでもない。にもかかわらず、「外惑星からやってきた」と言われるならそのように認識してしまうし、同様に、単なるパリの街も「銀河系星雲都市アルファヴィル」と言われるならそのような未来架空都市のように認識させられてしまうのである。

これは、想像力をちょっと刺激することにより「”見えているもの”を”見えているものとは別のもの”に思わせてしまう」という事なのだろう。例えばタルコフスキーの『ストーカー』では単なる野原や廃坑を、「そこに得体の知れない力場の働く危険地帯」と思わせる事により、異常な世界の緊張感を生み出せさていた。ジョン・セイルズ監督によるインディー作品『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』では、一人の普通の黒人を「宇宙人」、彼を追う白人を「宇宙ハンター」と呼称させることで、殆どSFセットを使っていないにもかかわらず堂々たるSF作品として完成させていた。

言うなればこれは、子供がよくやる「見とり遊び」ということだ。ちょっとした想像力で、公園の遊具が敵性宇宙人の放ったトラップに成り得るし、空き地の物置は科学の粋を集めたウルトラ秘密基地に成り得る。映画『アルファヴィル』にはこういった「想像力の遊び」がある。

アメリカ的ハードボイルド世界とサイエンス・フィクション

もうひとつ面白かったのはこの作品が非常にアメリカ的なハードボイルド・テイストを踏襲しているということだ。それはまず主役である秘密諜報員レミー・コーションのキャラクターだ。中折れ棒にロングコート、苦み走った表情に虚無的な台詞、暴力的な性格と容易く撃ちまくる銃、そして彼を取り巻く謎の美女。これらは面白いくらいハードボイルド探偵の紋切り型をなぞっているではないか。「ハードボイルド」はアーネスト・ヘミングウェイの系譜を継ぐダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーら探偵小説作家が描く文学スタイルだが、非情で暴力的、かつ内面描写を省いた簡素な文体を用いた、ある意味アメリカ文学における「発明」と言っていいだろう。

そこここに登場するアクションや仰々しく盛り上がるサウンドからもやはりノワールの紋切り型が見え隠れする。実の所たいがいのハリウッド・アクションは紋切り型とも言えるが、ゴダールほどの監督がなぜわざわざそういった演出を持ち込んだのか、という部分に興味が湧く。

この『アルファヴィル』は副題として「レミー・コーションの不思議な冒険」というタイトルが付けられている。勿論主人公の名前であるが、実はこのレミー・コーション、もともとフランスで人気を博した探偵映画の主人公の名であり、演じるエディ・コンスタンティーヌ自身がこの『アルファヴィル』で同じ役を再演しているのだ。さらに俳優エディ・コンスタンティーヌアメリカ人であり、彼の演じるレミー・コーションはアメリカ的な単純明快さを持つ、つまりはフランス人が想像するアメリカ人探偵の紋切り型を演じて人気を得たシリーズなのだという(ただし原作は英国人作家によるもの)。

さてゴダールはなぜそのような「アメリカ的ハードボイルド探偵」を主人公とし、さらにそれをSF作品としたのか。SF小説の始祖と呼ばれるジュール・ベルヌはフランス人であり、H・G・ウェルズはイギリス人であったが、ジャンルとして花開いたのはアメリカだったと言っていいだろう。「サイエンス・フィクション」という呼称自体がアメリカ初のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ』で最初に用いられており、ここから一般への認知が成されたと考えられるだろう。アメリカでSFが花開いた理由は世界一の資本主義大国アメリカの高度経済成長に伴う科学合理主義、科学楽観主義、それらが生む未来への期待と不安がSFという形に結実したからだと言えはしないか。

つまり映画『アルファヴィル』はフランス人監督がフランスで製作しながら二重にアメリカ的な要素を帯びた作品だと言えるのだ。ゴダールアメリカという国にどういったスタンスをとっていたのかということはゴダール理解に乏しいオレには分からない。しかし完成した作品に少なくとも皮肉や冷笑が含まれていないことを考えるなら、アメリカという国の文化を素材としそれを対象化しようと試みたか、フランスという古い歴史を持つ国のアメリカという新しい国への憧憬があったからか、あるいはアメリカ的な視点を持ち込むことによってフランス的なるものを批評しようとしていたのか、等々、様々な理由が推測できる。

ただし物語のそこここに盛り込まれる観念的で難解な台詞、「愛」や「感情」に対する強烈な希求心の在り方は、精神性を重んじるフランス文化ならではのものだろう。ゴダールアメリカ的なものにどういった感情を抱いているのか容易には想像できないにせよ、それらアメリカ的なるものを最終的にフランス的感情に捻じ伏せたのがこの『アルファヴィル』だと言う事ができるのかもしれない。


Alphaville (1965), Jean-Luc Godard - Original Trailer

アルファヴィル [Blu-ray]

アルファヴィル [Blu-ray]

 
アルファヴィル [DVD]

アルファヴィル [DVD]