■神が結び合わせた2人(原題:Rab Ne Bana Di Jodi)(監督:アディティヤ・チョープラ 2008年インド映画)
去年の暮れに映画納めということで観た映画はインド映画『神が結び合わせた2人』。シャー・ルク・カーン、アヌシュカー・シャルマー主演により、『Dilwale Dulhania Le Jayenge』(1995)で名高いアディティヤ・チョープラーによって監督された作品だ。映画は「インディアン・シネマ・ウイーク・リターンズ2018」の1作として公開されたものを観た。上映時間は164分。
【物語】アムリトサルで電力会社に勤めるスリーは思いがけず恩師の娘ターニーと結婚し、ぎこちない生活を送っていたが、妻の心を勝ち取る為にサエない外見を一掃し、別人ラージを装い、妻が通うダンス教室に現れ、ペアダンスを踊る事になった・・・。キング・オブ・ボリウッド、シャールク・カーンが二役を演じる、涙アリのラブコメディー。
地味ダサ男スリーが恩師の縁でやっと結婚できたにもかかわらず、嫁ターニーが全く心を開いてくれないことから一計を案じ、イケイケ派手男ラージに変装して嫁に近づき、ウェイウェイ言いながら気を引こうとしてみたが……というのがこのお話である。ターニーとラージが出会うのはダンス教室であり、これによりインド映画十八番の歌と踊りがたっぷり盛り込まれることとなる。
実はこの作品は以前、輸入DVDで英語字幕で鑑賞していた。その時の感想はこれ。
この時は非常に感銘を受け、シャールク作品の中でも結構なお気に入り作となった。そして今回やっと日本語字幕で鑑賞する事ができたのだが、また別の感想を抱いた。
まずなにしろ映画館の大画面で観ると、映し出されるインドの様々な街並み、情景が圧倒的な美しさでもって迫ってくる。歌と踊りのシーンは優れた音量と音響でもって迫力たっぷりだ。日本語字幕は英語字幕で観た時より発見は少ないが、当然細かなニュアンスは伝わってくる。
しかし初見時と違う印象を抱いたのは、主人公スリーの人間性である。初見時は内向的な男のいじらしいほどの愛の深さに心動かされたが、こうして二度目に観ると、これは恐ろしく屈折している上に一歩間違うと相当アブナイ方向に転びかねない紙一重の物語だな、と思わされた。
そもそもスリーが演技するラージのキャラクターはどこから来たのか。己の性格の逆を行っただけなのかもしれないが、実はもともとスリーに内在したものだったのではないのか。映画的に見るなら二つのキャラを演じるシャールク演技の妙を楽しめればいいのだが、リアルに見ようとすると相反する性格を持った二重人格者ということになってしまう。単にスリーが芸達者なだけだったとしたらこの描写は唐突なものになる。
そして演じられるラージのキャラはくどくてしつこい。この態度で女性の前に臨むラージはよくて傍迷惑、悪く取るなら変質者だ。もう一つ、ターニーを明るくさせようという目論見だったこの変装劇は最終的にターニーの愛を試す行為に変わってしまう。それもまたスリーらしからぬ傲慢さに思えてしまう。
一方ターニーも容易くラージにヨロメキ過ぎなのではないか。最初こそラージのキャラに辟易しつつ心変わりするターニーだが、ラージの一本調子なキャラは最初から最後まで(あえて)薄っぺらい。ラージのキャラの中に垣間見えるスリーの優しさに心安らいだ、というのが順当な解釈だとしても、それと愛とは別のものな筈ではないか。最後のあの気の迷いはラージの中の人であるスリーはどう受け止めるのか。いや、ターニーが幸福を感じればそれでいいとスリーは思っていたのかもしれない、だがそれにしても裏切りは裏切りだという気がする。
とはいえこういった危ういバランスの中でラストは辛うじてハッピーエンドを迎える。この「危ういバランスの中」であったからこそ物語は複雑な、ある種哲学的とも言える妙味を生んではいると思う。レオス・カラックス辺りのフランス映画とも通じているのではないか。
しかしなあ。やっぱ心情の応酬がややこしすぎまへん?ここまでややこしくしないと「愛」って認識できないものなのかなあ?それと「愛」だ「神」だと連呼し過ぎるのは単なる自己正当化じゃありまへん?まあとりあえずとことん屈折した物語ではあったよなあ。
Rab Ne Bana Di Jodi | Official Trailer with English Subtitles | Shah Rukh Khan | Anushka Sharma