夜明け前の漆黒の暗闇~映画『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』

スター・ウォーズ/最後のジェダイ (監督:ライアン・ジョンソン 2017年アメリカ映画)

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『スター・ウォーズ』サーガがジョージ・ルーカスの手を離れディズニー資本の下10年振りに製作された新3部作第1弾『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』がオレはまるで好きになれなかった。なんかこう、「ほらほら、『SW』ファンの君たちってこんなのが好きなんだよね?」と媚を売りまくったような、何一つ新しい部分の無い迎合の仕方に溜まらなくうんざりさせられたのだ。

当時書いたレビューでは「まあ紆余曲折あった後に満を持して作られた失敗の許されないプロジェクトだからこんな無難なだけの映画になったんだろうな」的なことを書いたが、実のところ、オレの中では、『スター・ウォーズ』は、既に、終わっていた。

だから『フォースの覚醒』の続編でありエピソード8にあたるSW新作『最後のジェダイ』が公開されると知ったときもまるで盛り上がらなかった。とはいえ、ブログのネタ程度に一応観ておこうとチケットを取ったが、IMAXなんかはいらねえな、と思い通常の2D字幕版で観てみることにしたのだ。

ところがだ。映画が始まりいきなり死と破壊に満ち溢れた熾烈な宇宙戦が展開しだしたとき、オレはすっかり物語に、SWの世界に飲み込まれてしまったのだ。「ああああああ!すげえ!すげえ!これだ!この興奮だ!オレはSWでこれを観たかったんだ!!」

その後の物語の詳細をここで書くことはしない。けれども、映画が終わった後、オレは素晴らしい充実感に包まれていた。

実のところ、オレはルークやらレイアやら、旧作からのキャラクターのその後になんのノスタルジーも覚えない。さらにレイやレンやフィンといった新作主要キャラの動向にもさほど興味を感じていない。ついでに言ってしまえば、フォースやジェダイがどうとかいうお話も、どうでもいいと思っている。しかしだ。「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」行われていた、宇宙を二分する強力な善と悪との戦いの物語として、この『最後のジェダイ』は、圧倒的な興奮に満ちていたのだ。

その物語は、その戦いは、情け容赦なく、徹底的だ。その情け容赦のなさは、外伝として製作された、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』に通じるものがある。映画『最後のジェダイ』は、『ローグ・ワン』の如き、戦争の虚無と残酷さと、劣勢に置かれた者たちの絶望感と、その中で閃光のように輝き渡るヒロイズムがある。ここには、エピソード1~7で描かれた、所謂"宇宙冒険ファンタジー"の甘やかさは稀薄だ。映画の色調はどこまでも暗く鈍く、陽光の中で行われるシーンすら死の匂いが充満する。そしてこの熾烈さは、実は結構現代的な世相すら反映しているような気すらする。

しかし砂を噛むような寂寞感に満ちた『ローグ・ワン』とこの『最後のジェダイ』の物語を分けるのは、そこにフォースという名のパワーを秘めたヒーローたちが存在するということだ。即ち、どんなに過酷であろうと、熾烈であろうと、そこには必ず全てを救う筈の【希望】があり、【救済者】がいる、ということなのだ。その【救済】を、その【奇跡】を、ひたすら【信じる】ことで、絶望的でしかない状況を、石に齧りついてでも打破しようとするのがこの物語なのだ。

『最後のジェダイ』はその中で、ジェダイという名の【救世主】の喪われた世界と、そのジェダイを新たに継ぐべき者が生まれようとする過渡的な状況を描く作品だ。それは【救済】と【希望】がまだ手探りでしかない状況なのだ。だからこそ否応なく物語は熾烈であり過酷なのだ。それは、夜明け前の漆黒の暗闇を描く作品だからなのだ。

そしてこの状況は、『最後のジェダイ』を新3部作の中盤の在り方として最も正しく、最も正統的なドラマとして成立させているのだ。善が悪の中に今まさに飲み込まれようという混沌と混乱の渦中にありながらも、【新たなる希望】を模索して止まない物語、これこそがスター・ウォーズではないか。こうして『最後のジェダイ』は、新3部作の中盤にありながらスター・ウォーズ・サーガの新たなる傑作として堂々と完成したのである。ああああああ!観てよかったなあああああ!!!


「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」本予告