インドからの逃走~映画『Badrinath Ki Dulhania』

■Badrinath Ki Dulhania (監督:シャシャンク・カイターン 2017年インド映画)

■結婚を誓った男女のすれ違いを描くドラマ

ヴァルン・ダワン、アーリヤー・バット主演による映画『Badrinath Ki Dulhania』は結婚を誓った男女のすれ違いを描く恋愛ドラマだ。監督はシャシャンク・カイターン。彼は2014年にあの『Dilwale Dulhania Le Jayenge』を換骨奪胎した映画『Humpty Sharma Ki Dulhania』をこの作品と同じ主演男女で撮っており、いわば姉妹的作品として位置づけられるのかもしれない。今回はネタバレ全開で書くのでこれから観ようとしている方はご注意を。

物語前半はインド映画ではあまりにお馴染み過ぎるボーイミーツガールの展開が続く。富豪の息子である主人公バドリー(ヴァルン・ダーワン)はある日ヴァェーデーヒー(アーリヤー・バット)という女性と出会い、一目で恋に落ちる。最初はつれない態度だったヴァェーデーヒーだったが、いつしか二人の心は接近し、遂に結婚へと漕ぎ着ける。だが結婚当日、ヴァェーデーヒーは突然姿を消すのだ。

この前半部は若い男女の恋のさやあてをコメディ・タッチで描き、艶やかな歌と踊りが披露され、インド映画お馴染みの結婚に五月蠅い頑固オヤジの渋面も間に挟みながら、ある意味定番通りの「インド・ラブコメ」の様相を呈している。しかしこれがあまりに定番すぎて、どうにも薄っぺらいものにしか見えず、実に退屈だった。前半部最後に用意されるヴァェーデーヒーの失踪も、実は彼女が仕事を持ち自立した女性としての生活をしたかったからだと明らかにされるのだが、退屈な物語に今風の一波乱を持ち込み目先の新しさを出そうとしたのだろうとしか思えず、正直どうでもよかった。ところがだ。この退屈さは、実は後半部に向けての周到に計算された退屈さだったのだ。

■名誉殺人すら臭わせる異様な展開

後半部が始まると、息子の結婚式を袖に振られ怒り心頭に達したバドリーの父が、騒動の張本人であるヴァェーデーヒーを「天井から吊るすように」見つけてこいとバドリーに命じる所から始まる。ヴァェーデーヒーがシンガポールにいることを突き止めたバドリーは、一路かの地へと向かう。そこでヴァェーデーヒーはキャビンアテンダントになるための訓練を受けていた。バドリーはヴァェーデーヒーを彼女の家の玄関先で拉致し、彼女を暴力的に扱う。その後もバドリーはヴァェーデーヒーの家の前でストーキングしながら、事あるごとに「なぜ俺との結婚を反故にしたのだ」と詰め寄るのだ。

この後半部は前半の能天気な展開から一転、憤怒に我を忘れたバドリーの暴力的な態度と、それをなんとかなだめようとするヴァェーデーヒーの慌てふためくさまがクローズアップされる。前半と後半のコントラストが異常なぐらい違う。バドリーは確かに彼を裏切ったヴァェーデーヒーに怒り狂っていた。しかし同時に、バドリーの怒りの背後には、彼の強権的で男尊女卑的な父親の、家長であり男であることの面子を潰されたことへの怒りが憑依していた。この時バドリーは気付くことも無く彼の父親へと成り代わり、大時代的でしかない男性優位の立場からヴァェーデーヒーを断罪しようとしていたのである。

ここでのバドリーの姿はもはや狂犬だ。かつて愛していた女への同情も理解も無く、ただただ己の都合だけを強要する支配者であろうとする存在だ。なぜなら男は女の支配者であるのが当然だからだ。そして男の言うことを聞かない女を、男に舐めた真似をする女を断罪するのは、インドの男にとって【当為】だからである。そして、この部分におけるバドリーの態度は、そのままインドの悪癖である【名誉殺人】の臭いを濃厚に漂わせ始めるのだ。そもそも、バドリーの父の言説自体が、既に【名誉殺人】をほのめかしていた。この物語はそのような一触即発の暗く狂った情念を孕んでいたのだ。

だがヴァェーデーヒーのたゆまぬ愛情が次第にバドリーの心を融かしてゆく。そして父の憑依が解けたバドリーは、本来彼が持っていたヴァェーデーヒーへの愛を思い出すのだ。これはバドリーから【インド男であることの当為】という洗脳が解けたことだとも思っていい。そして、インドを遠く離れたシンガポールの街で、二人の愛は再び花開くのである。

■インドからの逃走

ヴァェーデーヒーがバドリーとの結婚を反故にし、遠い国へと逃れ去ったのは、それはバドリーの愛から逃れ去ったのではなく、【無理解】と【不寛容】という、インドという国が持つ大時代性からの逃走だったのだ。それは、インド映画によくある駆け落ちですらなかった。何故ならヴァェーデーヒーは愛するバドリーもまた、【無理解】と【不寛容】に塗り固められたインド男性であることが払拭できないままなのを薄々感じていたからだ。

例えば『DDLJ』において、主人公は愛する人の無理解な父をなんとか説得しようと血塗れになるまで尽力していた。『家族の四季』においては、支配的な父親との対立を経ながら恐るべき苦闘の末和解へと漕ぎ着けていた。『2 States』は夫婦それぞれがそれぞれの家族の理解を得ようと奔走していた。たゆまぬ努力はインドにおいてギーター的な美徳であり、和睦へと向かうその物語は感動的だった。だが、【無理解】と【不寛容】それ自体は、時代へ経てもまるで変わることが無かったではないか。であれば、逃走するしかない。それは父権からだけではない。そのような因習を残すインドそれ自体からだ。ヴァェーデーヒーとバドリーは、シンガポールという異国の街で初めてそれぞれのしがらみから逃れ、愛を取り戻す。しかしそれは、若い男女の、インドという国への絶望でもあるのではないか。

物語は、いかにも【物語】らしいハッピーエンドのクライマックスを迎える。ハッピーエンドとは、誰もが幸せになり、誰もが納得づくということだ。そうしなければ【物語】は終わらず、そして金を払って劇場に来た観客は満足しないからだ。しかしオレには、インドの地に再び帰郷したヴァェーデーヒーも、ヴァェーデーヒーとバドリーが結婚しその間に生まれた子に頬を緩ますバドリーの父親の顔も、全てとってつけたような嘘くさいものにしか思えなかった。何故なら、これでは本質的な問題は何一つ解決していないからだ。この物語の真のエンディングは、泥酔して父にも家族にも罵声を上げ否定を突き付けるバドリーの姿で終わるのが適当だったのだ。それは虚無であり絶望である。しかし、若者たちが自らの国インドに感じる心象もまた、虚無であり絶望なのだ。


Badrinath Ki Dulhania - Official Trailer | Karan Johar | Varun Dhawan | Alia Bhatt

◎参考記事