国家と個人、制度と自由〜映画『スーサイド・スクワッド』

スーサイド・スクワッド (監督:デヴィッド・エアー 2016年アメリカ映画)

■"自殺部隊"

スーサイド・スクワッド(Suicide Squad)、訳して"自殺部隊"。バットマンやスーパーマンを擁するDCコミックに登場する、ヴィラン(悪役)を寄せ集めた決死部隊だ。奴らは既に逮捕投獄され、無期懲役が確定しているが、その人間離れした殺傷能力・戦闘能力を見込まれ、非常時の使い捨て部隊として投入されたのだ。奴らは首にマイクロ爆弾を埋め込まれ、逃げ出せば死が待っている。そして投げ出された戦場でも、おぞましい死が待ち構えている。しかし作戦を成功させて生き延びれば、10年減刑してくれるらしい。無期懲役から10年減刑されても、∞マイナス10だが。

デヴィッド・エアー監督によるアメコミ映画『スーサイド・スクワッド』は、こんな絶望的な戦いに送り込まれた悪役たちの、一寸先すらも分からぬ死闘を描いたアクション作品だ。この作品には多くのDCコミック・ヴィランたちが登場する。オレはアメコミに暗いので、ジョーカー(彼は投獄されていない)と彼の恋人ハーレイ・クインしか知らなかったのだが、他に百発百中スナイパーのデッドショット、ブーメラン使いのキャプテン・ブーメラン、炎を操るエル・ディアブロ爬虫類人キラー・クロック、太古から存在する魔女エンチャントレス、縄使いの殺人鬼スリップノット、女剣術師カタナ(彼女は体制側だ)といった、いずれ劣らぬ曲者連中が登場する。さらにあのバットマン、もうひとりのヒーロー、フラッシュの登場もある。

■システムと対立するもの

ところが物語が進んでゆくと、この映画が単なる「コスプレ悪役大集合」といったお祭り映画ではないことに段々気付かされる。確かにショバで大暴れしていた頃の奴らは、極悪非道の大悪党だった。だが今は刑務所に厳重に監禁され、徹底的に痛めつけられ、虫けらのように扱われている。政府組織A.R.G.U.S.により「スーサイド・スクワッド」結成が決定されたときも、一切の拒否権もなく、生殺与奪権を握られ、絶対服従させられ、奴隷のように死地に送られることになる。A.R.G.U.S.のボス、アマンダ・ウォーラーは作戦の為なら部下すらも殺す女で、その冷徹さはヴィランたちをも怖れさす。冷徹さには冷徹さなのか。いや、彼女の成す行為は、国家の大義を取り払ってしまえば、ヴィランたちと何一つ変わりないではないか。

アマンダ・ウォーラーとヴィランたちを分け隔てるもの。それは、アマンダ・ウォーラーの後ろには国家という巨大で強固な体制が存在するということである。それは強大であるがゆえに機械の如き無慈悲なシステムであり、そこには感情も人間性も差し挟まれる余地はない。即ちアマンダ・ウォーラーは無慈悲なシステムそのものとして登場するのだ。一方、ヴィランたちはどうか。奴らにあるのは大いなる個人主義でありとめどない欲望であり、それを成就するためなら手段を選ばないアンモラルさである。ここで映画『スーサイド・スクワッド』は、「善と悪」といった従来的なスーパーヒーロー映画の退屈な二元論とは全く異なる対立項を観る者に提示するのだ。それは「国家と個人」であり「制度と自由」である。

■自由への脱出

映画に登場するヴィランたちはどれも社会の爪弾き者だ。奴らはクズだ。社会のダニだ。奴らの悪辣さは映画冒頭で紹介されるが、しかし今は鉄の檻に閉じ込められ虐待されるままの、牙を抜かれた猛獣に過ぎない。確かに奴らに同情の余地はないかもしれない。奴らによっていったいどれだけの命が奪われ、どれだけの財産が破壊されただろう。しかしここに「冷徹な国家体制」を持ち込むことにより、極悪非道でしかない筈のヴィランの意味合いが窯変するのである。ここでヴィランたちは、国家に対する個人となり、制度に対して自由を求める者として存在し始めるのだ。

奴らは国家により徹底的な従属を強いられる。それは屈辱的な仕打ちであり、魂を磨り潰すような暴力だ。しかしその絶望の中で、奴らは自らの命を燃やし尽くそうと行動するのである。奴らに大義などはない。スーパーヒーロー映画で腐るほど連呼される「正義、正義」のお目出度い題目など奴らには用などない。奴らの求めるもの、それは屈辱的な服従からの脱出だ。何一つ邪魔するもののない自由だ。奴らの考えているのは自分のことだけだった。なぜなら、これまで自分を守るのは自分しかいなかったからだ。しかし、そんなヴィランたちが次第にひとつになってゆく。自由への脱出のために。それが死を賭けた戦いの中にしかないとしても。そこにこの物語のドラマがある。

冷徹な国家からの自由。個人が紛れもない個人であること。映画『スーサイド・スクワッド』は、こうして反体制とアナーキズムとを高らかに謳いあげる稀有なピカレスク・ロマン作品として完成したのである。傑作である。