ボンベイな映画を3作観た〜『Bombay』『Salaam Bombay!』『Bombay Talkies』

"ボンベイ"は現在ムンバイと呼ばれているインド最大の都市の旧称だ。インド亜大陸の西海岸に位置し、映画産業が盛んなことから"ボリウッド"という言葉の元ともなっている。今回はこの旧称ボンベイの名を冠した3作のインド映画、『Bombay』『Salaam Bombay!』『Bombay Talkies』を観てみることにした。こうして3作続けて観てみると、それぞれにインドという国の縮図が現れていて面白い。『Bombay』はインドの宗教対立を題材にし、『Salaam Bombay!』はインドの貧困問題を取扱い、そして『Bombay Talkies』はインドの映画愛がそのテーマとなっているのだ。

■宗教対立が生んだ暴動の只中で翻弄される家族〜映画『Bombay (ボンベイ)』 (監督:マニ・ラトナム 1995年インド映画)


物語は南インドの村に住む二人の男女の出会いから始まる。二人の名はシェーカル(アルヴィンド・スワミー)とシャーイラー(マニーシャー・コイララ)。愛しあう二人だったが、それぞれにヒンドゥームスリムであった為に、彼らの恋愛を家族は決して許しはしなかった。二人はボンベイへと駆け落ちし、双子の子をもうけて幸せに暮らしていた。しかし、そのボンベイの街に、ヒンドゥームスリムとが対立する暴動が巻き起こってしまうのだ。映画は前半を二人の出会いと幸福な結婚生活を、後半を暴動の最中、家族がばらばらとなり、死の恐怖に追い立てられながら彷徨う姿が描かれてゆく。監督は『Dil Se.. (ディル・セ 心から)』(レビュー)のマニ・ラトナム。
劇中描かれる暴動は1992年のイスラム寺院破壊事件に端を発する実際の大惨事を元にしており、この時は2000人以上の市民が犠牲になったのだという。インドにおけるヒンドゥー/ムスリムの宗教的対立はかねてから非常に根深いものとなっており、この暴動の後も2002年に「グジャラート暴動」が発生し、これなどは映画『Kai Po Che』(レヴュー)で再現されていたのが記憶に新しい。この作品で描かれる殺戮にまみれた暴動もまた地獄図の様子を呈し、しかもそれがそれほど遠くない過去にインド最大の都市で起こったことである、といった点が恐ろしくも感じる。例えば想像して観て欲しい、東京のど真ん中で暴動が起き、何千人という死傷者が出る、という状況を。しかもそれが何度も繰り返される、ということを。
しかしこの作品は暴動の破壊的恐怖のみを取り上げたものでは決して無く、むしろこのような痛ましい事件を乗り越えてのヒンドゥー/ムスリムの融和を描こうとする。主人公二人に生まれた双子にそれぞれヒンドゥー名とムスリム名が付けられていることは象徴的であるし、また、最初は猛烈に反対していた二人の親が、信教の垣根を超えて歩み寄ろうとする描写などにもそれは現れている。そして作中ではインド映画らしい美しい歌と踊りが盛り込まれ、作品テーマの持つ重苦しさを緩和し、決して陰鬱な物語としてはいないのだ。前半のロマンスと幸福な結婚生活展開は若干退屈ではあるが、後半への対比として用意されたものなのだろう。それにしてもヒロインを演じたマニーシャー・コイララ、美しい女優ではあるが『Dil Se..』と同様に薄幸キャラだというのは、やはり薄幸顔だからなのだろうか…。

■スラムに生きるストリート・チルドレンの悲しみ〜映画『Salaam Bombay!(サラーム・ボンベイ!)』(監督:ミーラー・ナーヤル 1988年インド/イギリス/フランス/アメリカ映画)


映画『Salaam Bombay!』はボンベイのスラム街の、その底辺で生きる人々を描いた作品だ。ここに登場するのは、売春婦、ポン引き、売人、ヤク中、かっぱらいなどであり、その殆どが貧困に喘ぎ、明日のない暮らしを営んでいる。主人公はそんなスラム街で寝起きするストリートチルドレン、クリシュナ(シャフィーク・サイード)。彼の眼を通し、インド最大の都市の暗部を浮き上がらせてゆくのだ。
物語は冒頭から陰惨だ。年端もいかぬ少女が売春宿に売られ、嗚咽を上げながら宿へと引き摺られてゆくのだ。主人公クリシュナはそんな町でチャイを売り、雀の涙ほどの給金を貯めながらいつか母がいるはずの故郷に帰る日を夢見ている。この作品では実際のストリートチルドレンをオーディションし、主人公演じるシャフィーク・サイードもその一人だという。また、実際のスラム街にカメラを入れ、その現実を描いたという部分で、当時のインド映画では画期的なものであったのらしい。この辺は監督がドキュメンタリー映画出身であること、製作がインドのみならず、英・仏・米が関わっていることにも如実に表れているだろう。ただそのせいか、"貧しい国"インドを"豊かな"先進国側から見た作品のようにも思えてしまった。
この作品はインドの現実の一端を切り取り、それを真摯に描くことにより、どうしてもその【悲惨さ】ばかりに注視させてしまう作品になっているが、しかしそういった【悲惨さ】の中にあっても、なんとしても生き抜こうとする主人公少年の強い生命感は、この作品を決して陰鬱なだけのものにしていないのは確かだ。だから、もう少々救いがあってもよかったのではないかと思う。

■インド映画100周年を記念して製作されたオムニバス〜映画『Bombay Talkies』(監督:アヌラーグ・カシュヤプ/カラン・ジョーハル/ゾーヤー・アクタル/ディバーカル・バナルジー 2013年インド映画)


2013年にインド映画生誕100周年を記念し、4人の監督によって作られたオムニバス映画がこの『Bombay Talkies』だ。それぞれ4作の監督と主演、物語の粗筋はざっとこんな感じ:

1作目:カラン・ジョーハル監督…ある新聞社を舞台にしたゲイ青年と編集者夫婦との物語。映画的キーワードは「往年の映画名ソング」。主演・ラーニー・ムカルジー。
2作目:ディバーカル・バナルジー監督…ひょんなことから映画の通行人役をすることになった男はかつて役者志望だった。主演・ナワーズッディーン・シッディーキー。
3作目:ゾーヤー・アクタル監督…カトリーナ・カイフが大のお気に入りの少年(ナーマン・ジャイン)は、彼女になりきる為に女装をして踊る。カトリーナ・カイフが実際に出演。
4作目:アヌラーグ・カシュヤプ監督…病気の父を元気付ける為はるばるアミターブ・バッチャン邸に訪れた男(ヴィニート・クマール・シン)の物語。実際にアミターブが顔を出す。

オムニバスということからそれぞれは必然的に短編映画のサイズになるが、この「短編映画で何が表現できるか・またはしたいのか」と「そこにどう"映画"を絡めるのか」が本作を担った監督たちの課題ということになるだろう。その中でカラン・ジョーハル監督とゾーヤー・アクタル監督がトランス・ジェンダーをテーマに選んだのは、長編インド映画ではなかなかテーマとして盛り込むことの難しいテーマだという部分があったからなのだろうが、同時に新奇さを狙っただけということも考えられる。要するに"飛び道具"だよなあと思えたのだ。同じテーマが被るのはどうにかならなかったのか。
一方ディバーカル・バナルジー監督作はまだこのオムニバスの主題に則っていたと思う。たかが通行人でしかない役柄に役者志望者の持つメソッドをあらん限り盛り込もうとする主人公が愛おしく、主演のナワーズッディーン・シッディーキーは実にいい仕事をしていた。最後のアヌラーグ・カシュヤプ監督作は無遠慮に有名俳優に取り入ろうとする主人公の態度が個人的に苦手だった。でも実際のインド人って割りとこんなものなのかなあ。逆に言うならここまであけすけに演じた・演じさせた部分では成功している作品なのかもしれない。
どちらにしろどの作品も「映画愛」こそ伝わるが「インド映画生誕100周年」という"お祭"の為の作品としてはちょっと華が無く、むしろそれぞれの監督の短編作品の力量を吟味するオムニバスになっていると感じた。しかしその【華】となるのが実は4作が終わった後のエンディング・テーマ「Apna Bombay Talkies」だ。ここでは往年のインド映画大スターたちの姿がモンタージュされ、さらに現代のインド映画大スターたちが代わる代わるにテーマ・ソングを歌う。これは盛り上がること必至だろう。むしろこのエンディング・テーマこそが本体で最初の4作は付け足しのように感じてしまった。