二人の知の巨人を巡る物語〜『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』

■世界の測量 ガウスフンボルトの物語 / ダニエル・ケールマン

世界の測量 ガウスとフンボルトの物語
『世界の測量 ガウスフンボルトの物語』は世界各地に伝わるどうにも変わった珍測量・迷測量をガウスさんとフンボルトさんがリポートする面白本である。ガウスといえば磁力を発明しピップエレキバンで大儲けした男。一方フンボルトフンボルトペンギンを発見し動物ショーを繰り広げて大儲けした男である。その内容はというと、例えばアフリカのベロの長さを基準とした単位、南米での樹木にたかる芋虫の数から測定されるその年の収穫量、また中欧での屁の臭さが届く範囲を用いた面積の測り方、西欧での間男の夜這いの回数とその間隔から導き出される人口増加の方程式、北米での流れ星の数から導き出される宇宙の広さ大きさ、日本では江戸しぐさがもたらす侘び寂びの絶対的数値、などが挙げられている。…などとUncyclopedia風に書いたがもちろん全て冗談である。
実際の『世界の測量 ガウスフンボルトの物語』は「博物学者・地理学者アレクサンダー・フォン・フンボルトと数学者・天文学者・物理学者カール・フリードリヒ・ガウスという、知の歴史に偉大な足跡を残したドイツ人ふたりの哲学的冒険小説」ということになっている。しかしガウスフンボルト、名前こそ知ってはいるが彼らが科学の世界にどのような足跡を残した人物なのか、要するにどんだけスゲエ人たちだったのか、というと実はよく知らなかったりする。Wikipediaなんぞを調べると例えばフンボルトは、

フリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769年9月14日 - 1859年5月6日)はドイツの博物学者兼探検家、地理学者。兄がプロイセンの教育相、内相であり言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルト。近代地理学の金字塔、大著『コスモス』を著したことは有名。カール・リッターとともに、近代地理学の祖とされている。また、ゲーテやシラーや、ヨーロッパ滞在中のシモン・ボリバルなどと、親交があった事でも知られる。
アレクサンダー・フォン・フンボルト / Wikipedia

そしてスペインで流星雨を観察してその周期性の研究が今日の天体観測の基礎になったり、南米に渡って調査をし、ペルー沿岸を流れる海流の調査をしたことにちなんで「フンボルト海流」なんて名前が後に付けられ、さらにベスビオ火山の調査研究を行ったりしてヨーロッパにその名をとどろかせ、当時はナポレオンに次いで有名な人物とすら言われていたらしい。
一方ガウスはというと、これもWikipediaからの安易な引用をするならば、

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777年4月30日 - 1855年2月23日)はドイツの数学者、天文学者、物理学者である。彼の研究は広範囲に及んでおり、特に近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられている。数学の各分野、さらには電磁気など物理学にも、彼の名が付いた法則、手法等が数多く存在する。19世紀最大の数学者の一人である。
カール・フリードリヒ・ガウス / Wikipedia

となっていて、なにしろ幼い頃からとんでもない数学の天才振りを発揮した神童であり、なんかもう山のように法則だの方程式を発見し、ガウスの名が付いた法則、記号、単位だけでも20以上存在するのだが、いかんせん数学がまるで苦手なオレにはなにがなんのことを言っているのかさっぱりわからないのだが、とにかく「凄いよ!凄いんだよ!」ということになっている。

ところで全然関係ないがネットでWikipediaを参考にしたり引用したりすると情弱呼ばわりされるが、全く間違いはないとはいえないにしても、Wikipediaというのはそれなりに検証・討論されて存続しているWebページだし、論文書くような人や専門家が使うのはナニであるのは判るが、オレの様なその辺の一般人がちょっとした調べものの参考にすることにいったいどんな問題があるのかさっぱり判らない。それとオレはある検索語に対して複数のWebページを見比べて一番簡単で判りやすい説明になっているのがWikipediaであった場合それを使うことにしているし、そもそもじゃあナニを参考にすればそれが最も正解だっていえるのか、わかるのか、という気がする。なんか「Wikipediaは嘘だらけ!」って言いたいだけなんじゃないのかな。

さて『世界の測量 ガウスフンボルトの物語』だが、本国ドイツでは2005年に発表され35週にわたり売り上げベスト1だったというベストセラーで、2007年のある米国国際ランキングでも『ダ・ヴィンチ・コード』や『ハリー・ポッター』を押さえ「2006年世界のベストセラー第2位」にランクインされた本なのらしい。ガウスフンボルト、というのが知の巨人であるとしても、少々渋すぎるメンツであることを考えると、いったいどうしてまたそんなに人を惹き付けたの?と思ってしまう。で、その内容はというと、もちろんガウスフンボルトが登場し、彼らの人生とその功績を交差させながら、彼ら二人の人間的内面を追ってゆく、という形になっている。まあしかしそれはいってみりゃあひとつの偉人伝としては普通のことだ。少々幻想的な作者ならではのマジックリアリズム的手法が加味されるけれども、それは少々であって物語の主要な魅力というわけでもない。

そんなことより面白かったのはこの二人のドイツ人ならではといってもいい四角四面さと融通の利かなさ、そして他のことなど一切なりふり構わずひとつのことに徹底的に集中しまくるマニアックさだ。ドイツ人ならでは、なんて書いたけどオレにドイツ人の知り合いがいたりオレがドイツ研究をしていたわけではないから、単なるイメージで物事を言っているだけで、「そんなこたあないよ」と言われればそれまでなんだが。そういうオレにとって、ドイツといえばビールだったりソーセージだったりもするが、なによりやっぱりテクノだね!あいつらの電子的反復音に対する拘り方はやっぱり図抜けてるよ。優れたプロデューサー/DJはいっぱいいるし、伝説的なクラブもいっぱいあるしね。計算され均等でよく整理されていて延々ひとつのビートに集中しまくるジャーマン・テクノは、やっぱりどこかドイツ人らしい、と思うわけなんだよな。

だからこの物語には、天才であり知の巨人ではあるけれども四角四面で融通が利かなくて、一歩引いて見ちゃうとどこかイビツにすら感じさせる、まあ言うなれば「変わり者」の二人が描かれている、ということなんだよね。ドイツでこれがベストセラーになったのは、こうした二人のドイツ人気質を思い切りぐつぐつ煮詰めたような「ドイツの素」「ドイツ汁」を、ドイツ人の皆さんが我と我が身の移し絵を見せられているかのように見出し感じ入っちゃったからなんじゃないのかな。まあオレはドイツ人ではないからそういうのは「へえ」とか言って読み飛ばしたけど、それよりもこれほどまでの知性と才覚を持ちながらも晩年は短たる俗物になったフンボルトと皮肉屋になったガウス、そして自らの衰えてゆく知力体力にため息を漏らす二人の姿に、かつては神童であった筈だが今や老いさらばえ老害となってしまったオレ自身の姿が重なってしまったね!いや、オレだって子供の頃は神童だったんだから!町内ではね!

世界の測量 ガウスとフンボルトの物語

世界の測量 ガウスとフンボルトの物語