■バッタ君町に行く (監督:デイヴ・フライシャー 1941年アメリカ映画)
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都会の真ん中に、虫たちが暮らす草むらがあった。しかし囲いが壊れたことで人間が侵入し、虫たちは危険にさらされ、日々の生活に安穏としてはいられなくなっていた。そんなある日、長旅を終え恋人ハニーのもとに帰ってきたバッタのホピティは、草むらの惨状を知り、安全な土地への引越しを提案。かくして、人間の足元で、小さな虫たちの苦難の引越しが始まる。しかし、ホピティとハニーの仲を裂こうとする、カブト虫のビートルと部下である蚊のスマックと蝿のスワットの悪巧みや、人間たちの悪意なき行動によって、引越しはなかなか進まない。果たして小さな虫たちは、自らの安息の地を見つけることができるのか―。
1941年アメリカで公開された『バッタ君町に行く』はフライシャー・スタジオの製作となる。フライシャー・スタジオの名を知らなくとも、「ベティ・ブープ」「ポパイ」の製作会社と聞けばお分かりになる方もいらっしゃるだろう。アメリカを席巻したこの2つのアニメ・キャラクターを生み出したフライシャー・スタジオは、かつてかのディズニーに最も肉薄したアニメーション・スタジオとして知られていた。
フライシャー・スタジオは、アメリカのアニメーションの黄金期、1930年代を通じて世界的に有名なディズニーの最大のライバルでした。
1921年にマックス・フライシャーとデイブ・フライシャーの兄弟により前身のスタジオが設立され、1940年代初頭まで同兄弟により経営されていたフライシャー・スタジオは、ファンタジーの傑作を生み出すディズニーに対抗し、都会的で大衆的な独自の作風を確立させ、『ベティ・ブープ』(1932)や『ポパイ』(1933)、『スーパーマン』(1941年度アカデミー賞短編アニメーション部門ノミネート)などを生み出しました。これらの作品は時代に囚われず、常に楽しめる作品として現在も世界中で愛されています。(Amazon内容紹介)
この『バッタ君町に行く』はフライシャー・スタジオの最後期の作品となる。優れた作品を生み出し続けてきたフライシャー・スタジオであったが、度重なる財政難と当時アメリカを揺るがした自主検閲制度《ヘイズ規制》によって大きな打撃を受け、この作品の後パラマウントに買収されたまま失速し、凡庸な作品しか生み出せない弱体スタジオになってしまったのだという。話は逸れるがWikipediaの《アメリカン・アニメーションの黄金時代》 を読むと、1920年代から60年代まで続いたアメリカン・アニメーションの黄金時代では、様々な映画会社、アニメ製作会社が人気作品、人気キャラクターを生み出そうとしのぎを削っていたことが詳しく書かれている。ミッキーマウスをはじめとしたディズニーキャラのみならず、バッグス・バニー、ウッディー・ウッドペッカー、トムとジェリーなど日本でもお馴染みのアメリカン・アニメ・キャラクターがこの時代に生み出されている。
作品の方は、実を言うとこれまで観てきた海外アニメと比べると若干退屈に感じた。アーリー・アメリカンのアニメは子供の頃から観せられていたので、特別に新鮮さを感じなかったというのもあるだろう。擬人化された虫たちのコミュニティがあって、人間たちの土地開発のために住む場所を追われことになるが、その中に因業な地主の虫がいて美味い汁を吸おうとする…という物語は、それほど面白みがあるものだというわけでもない。《世界初の長編ミュージカル・コメディ・アニメーション》という触れ込みもあるが、確かに音楽とシンクロした虫たちの動きは楽しいけれども、当時は画期的だったであろうその構成も、今観ると言うほどミュージカルミュージカルしているわけでもない。
そういった意味では、時代の流れで風化した部分もあるのだが、しかしこれが、後半になると凄いことになる。虫たちの住処でビル建築が始まり、虫たちはその場所を大慌てで逃げ出そうと試みるのだが、キャラ分けされた10数匹あまり小さな虫たちが、1画面の中でそれぞれ別のアクションを見せながら、全体的にはリズミカルな一つの動きとなって、ちょこまかちょこまかと動き回るのだ!しかもそれがクライマックスにかけて何カットも続くのである。これには見入ってしまった。少なくともこのシーンにおいては、当時ディズニーに追いつけ追い越せと切磋琢磨していたアニメスタジオの底力を感じてしまった。ちなみに、『ミクロの決死圏』『トラ・トラ・トラ』の監督リチャード・フライシャーは、フライシャー兄弟の兄、マックス・フライシャーの息子である。