オタク青年は悲劇の歴史を乗り越えられるか〜小説『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』

■オスカー・ワオの短く凄まじい人生 / ジュノ・ディアス

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカーはファンタジー小説ロールプレイング・ゲームに夢中のオタク青年。心優しいロマンチストだが、女の子にはまったくモテない。不甲斐ない息子の行く末を心配した母親は彼を祖国ドミニカへ送り込み、彼は自分の一族が「フク」と呼ばれるカリブの呪いに囚われていることを知る。独裁者トルヒーヨの政権下で虐殺された祖父、禁じられた恋によって国を追われた母、母との確執から家をとびだした姉。それぞれにフクをめぐる物語があった―。英語とスペイン語マジックリアリズムオタク文化が激突する、全く新しいアメリカ文学の声。ピュリツァー賞、全米批評家協会賞をダブル受賞、英米で100万部のベストセラーとなった傑作長篇。

第1章はデブでオタクで非モテという三重苦を抱えるオスカー・ワオ少年のデコボコ青春奮闘記だ。さらに彼を悲惨にさせているのは「彼女の2、3人ぐらいいて当たり前」というドミニカ共和国の生まれだということだ。だからオスカー君は非モテだからといって引き篭もってなんかいない。いつも積極的に女子にアタックし、そしていつも宿命の如くボロボロになって敗退してゆくのだ。
なんとも可笑しくもまた哀れなオスカー君だが、しかしこの後物語は思いも寄らぬ展開を見せる。章毎に主要人物をオスカーの姉、母、姉の恋人、祖父母へと変えてゆきながら、そこで物語られるのはドミニカ共和国の血塗られた歴史なのだ。1930年代から続いていたラファエル・トルヒーヨ将軍による独裁政権は、ドミニカ共和国を粛清と拷問と密殺に満ちた恐怖政治の横行する冷酷な監視国家として成立させていた。その中でオスカー君の一族が辿ったあまりにも過酷な運命が、章を追うごとに次第に明らかになってゆく。
文中にはオスカー君のオタク趣味であるアメコミ、アニメ、SF小説TRPG、そしてオスカー君の愛して止まないファンタジー小説指輪物語』に関する膨大な固有名詞が列記され、さらにその解説が脚注として詳細に述べられている。この情報量だけでも既に凄まじいオタク小説として読むことが出来るが、それが何故ドミニカ共和国の歴史的暗部に結びつくという構成となっているのだろう。
これはカート・ヴォネガットが何故名作『スローターハウス5』を時空が腸捻転を起こしたような構成と奇妙な宇宙人の登場するへんてこりんなSF小説として仕上げたかを考えるとよく分かる。第2次世界大戦において3万人とも15万人ともいわれる夥しい数の非戦闘員死者を出すことになったドレスデン無差別爆撃を一兵卒として体験し生き延びたヴォネガットは、それを小説として書き上げようとしたが果たせなかったのだという。それはドレスデン爆撃の恐怖があまりにも生々しいものであり、ヴォネガットはそれを作家として対象化することが不可能だったのだ。そうして出来上がったのがあのねじくれまくった構成のSF小説スローターハウス5』だった。ヴォネガットは、小説として、ねじくれまくることしか出来なかった。そしてそれは、作家としての【痛み】だったのだ。
『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の作者ジュノ・ディアスは、作品の執筆構想の途中で、ドミニカ共和国の暗く陰惨な歴史を書き上げようとしながらもヴォネガット同様それと正面から対峙し描くことが出来なかったのだという。そこでオタク少年の可笑しくもまた哀れな青春記を冒頭に挿入し、その一族の悲劇に彩られた歴史を徐々に遡ってゆくことで、ドミニカ共和国の暗部へと接近してゆく手法を選んだのだろう。即ちこれも、作家としての【痛み】だったのだ。
オスカー君の時代であるこの現代、トルヒーヨ政権は既に倒され存在していないが、その暴力の影はいまだドミニカ共和国を暗く覆っていた。そしてクライマックスにおいてオスカー君は遂にその暴力の影、即ちトルヒーヨの亡霊ともいえるものと対峙することになる。オスカー君は一族がその歴史の中で徹底的に振るわれてきた暴力そのものとの決着をつけるために戦うのだ。ってか戦えんのかこいつ、って感じだが。作品の後半からはあまりにも痛ましいドミニカ共和国の歴史とオスカー君の決意の凄まじさとで本を読みながらずっとワナワナウルウルしてしまった。あんまり本を読まない自分ですがこの作品は今年読んだ中で一番の傑作でした。お薦めです。