猟奇・髪長少女誘拐監禁事件〜映画『塔の上のラプンツェル』

塔の上のラプンツェル (監督:ネイサン・グレノ、バイロン・ハワード 2010年アメリカ映画)


その少女は幼い頃ある富豪の元から精神障害を持つ老婆によってさらわれた。老婆は少女を廃屋の最上階に閉じ込め、ままごと人形を扱うように育てていた。そして自分は母親だと言い含め、「世界は核戦争によって滅び去ってしまい外は強烈な放射能が渦巻いているので危険だ、だから自分はあなたをここから出せないのだ」と嘘を教えていた。少女は老婆の嘘を信じ切っていたが、しかし一人閑散とした部屋で長く過ごす孤独には次第に耐えられなくなっていた。そして孤独な少女の髪は、異様な長さで伸び続けていた。それはあたかも、長く伸びた髪の毛でもって、外の世界を覗き見たいと願っているかのようであった。そんなある日、少女の幽閉されていた廃屋に、一人のさもしいこそ泥が忍び込んだ。部屋で眠る少女を発見したこそ泥は、かつて自らの子をさらわれ、現在このぐらいの年頃の少女を子供として欲しがっていたある富豪のことを思い出した。これは高く売れるかもしれない…。こそ泥は少女を連れ出すことに決め、眠っていた少女を起こした。驚いた少女は外の世界は危険だから出て行けないと抗うが、こそ泥はそれは間違いであり、外には楽しいことや面白いことが沢山待っていると少女に教える。そして少女は次第に自分が老婆に騙されていたことを思い知る。そこへ老婆が帰ってきた。「どうして今まで嘘をついていたの」少女の怒りが頂点に達したその時、長く伸びた少女の髪がウネウネと大蛇のように蠢き、老婆の体に絡みつくと、万力のように締め付けだした。逃れることもできず体中の体腔から赤い血を流しもがき苦しむ老婆の体からは、ボキボキと骨の折れる音がし始める。ひでぶっ」くぐもった断末魔を発して絶命する老婆。「これでもう私は自由。これでもう私は輝かしい外の世界に旅立つことができる」ボロ雑巾のようにくずおれる老婆の骸を見下ろして、少女はそう呟いた。
――以上が『猟奇・髪長少女誘拐監禁事件 塔の上のラプンツェル』の一部始終である。…というのは全部冗談である。

ディズニー・アニメ『塔の上のラプンツェル』です。これはもう大傑作と言ってもいいでしょう。劇場公開時に映画館で観られなかったのが悔しいぐらいです。グリム童話を現代風に換骨奪胎し、親の束縛からの自立や性への目覚めなど様々なメタファーを取り込みながらも、映画の基本は実に分かりやすい恋と夢と冒険の物語で、しかもそれが嫌味になることなく完璧ともいえる美しいグラフィックで語られてゆくんです。もはやこれは童話の映画化などという範疇を大きく超えているでしょう。昨今のアメリカCGアニメの完成度の高さとその底力には毎回驚かされますが、この『塔の上のラプンツェル』も鉄壁の完成度で見るものを捻じ伏せます。

しかしこれを観て思ったのは「なんでこれが今のスタジオ・ジブリで出来ないんだ!」ということでしたね。少女の自立、なんてまさにジブリの得意とする分野じゃないですか。他所でも語られていましたが、お城に閉じ込められた少女とそれを救い出す泥棒、そしてお城での争奪戦などは、『カリオストロの城』(これはジブリじゃないけど宮崎駿という意味で)そのままだし、貯水所では高低差を利用したアクションが展開されますが、この高所恐怖症をあおる演出なんてかつてのジブリお家芸みたいなもんだし、酒場の荒くれ者たちの姿は『天空の城のラピュタ』の盗賊たちを思い出させてくれます。正直、場面によってはディズニーのCG映像をジブリ・アニメの画像に脳内変換して観ていたぐらいですよ。要するにそれだけこのアニメがジブリっぽく見えたんですよ。主人公ラプンツェルの大きな瞳と小さな鼻などの顔の造形なんて日本のアニメっぽいですよね。ここ最近のジブリのアニメ、『アリエッティ』や『コクリコ』はどうにも興味が沸かなくて観ていないんですが、それはなんかこうワクワクするものを感じないからなんですよね。ところがこの『ラプンツェル』にはそのワクワク感がある。変にイデオロギーや純日本的光景になんかに拘らなくていいから、ジブリにはこういうアニメをやってもらいたいのに、とちょっと思ったオレでありました。

それにしても、髪は女の命とは言いますが、女の髪には情念が込められているのでしょうか。そしてその長さに比例して情念は深くなってゆくのでしょうか。明るく溌剌と振舞う主人公ラプンツェルですが、あの長大とも言える、見ようによっては不気味な髪の長さは、案外男になんか想像も付かない深い情念とダークサイドが隠されているのかもしれません。どこへも行くことも出ることもできない塔の上で、外の世界へ触手を伸ばすかのように有り得ないほどどこまでも髪を伸ばし続けたラプンツェルは、本当はとても激しい情念を抱えた子なのかもしれませんよね。