20世紀を生きた気高き武術家の肖像〜映画『イップ・マン 葉問』

イップ・マン 葉問 (監督:ウィルソン・イップ 2010年香港映画)


ブルース・リーが生涯ただ一人師と仰いだ男、その名はイップ・マン。この映画は中国武術詠春拳を操る彼の人生の1ページを描いたものだ。
舞台は1950年、英国統治下の香港。この時代の香港の事など何も知らないけれど、映画で描かれるその町並みは、なにか日本の昭和中期を思わせるような貧しさと同居した懐かしさを覚えさせる。映画『イップ・マン』はまずこのセットのひなびた美しさに目を奪われる。そこで暮らす人々も本当にその時代そこで生きていたかのような存在感を持って町のそこここを闊歩する。主人公イップ・マンは家族を連れ広東省からこの町に移住してきた男だ。彼はこの町で武術道場を開こうとしていた。
このイップ・マンを演じるドニー・イェンの佇まいがひたすらにいい。物静かで、柔和で、実直で、常に泰然とし、超然とし、穏やかな表情を浮かべ、口数少なく、思考は裡にのみ向かい、大悟とした態度で、確たる遺志を秘めた眼差しを持ち、飄々と生きる男、そんなイップ・マンを、ドニー・イェンはあたかも本人が憑依したかのごとく演じきる。ドニー・イェンが登場した最初の数分で、まだカンフー技さえ披露していないのにも関わらず、この俳優の持つ魅力にとりこまれてしまう。
だがそんな静かなる男、イップ・マン=ドニー・イェンがひとたび技を繰り出せば、その動きは水の如くたおやか、しかしてその拳は巌の如く強靭、まさに柔よく剛を制すの体技で相対する者を打ち倒してゆくのだ。実の所自分は相当のカンフー映画オンチで、なんとこの映画に出演していたサム・ハン・キンポーさえ誰を演じているのか分からなかったという底なしの虚け者なのだが、自慢も出来ぬ数少ないカンフー映画鑑賞の中から僭越ながら思ったことを述べるならば、ドニー・イェンの動きの研ぎ澄まされた美しさは、これまでぼんやりと見知ったカンフーのそれと比べても相当のものであるのではないか。それだけ自分にとって新鮮であり、驚きに満ちた、素晴らしい体技の冴えであった。
物語の方は、道場入門者との赤子の手を撚るようなちょっとした格闘から始まり、敵対道場門下生たちとの多勢に無勢の群闘、そして武館を興すしきたりとして各門派の師範たちと執り行なわれる1対1の真剣勝負、さらには香港統治国イギリスからやってきた破壊的な強力さを持ったボクサーとの死を賭けた異種格闘戦と、カンフーのアクションを見せる為の常套的な流れをみせるが、ドラマそれ自体を決して御座なりにすることなく、むしろ溢れるような詩情と瑞々しさを湛えた美しい映像で、師範と弟子との交流、身重の妻との清貧かつ愛情ある暮らし、相反する者と次第に芽生える友情、そして被統治国香港に住む民衆たちの誇りと憤りの様を描き切る。その中で、主人公イップ・マンは、ぎりぎりの忍苦の果てに、決して闘いの為の闘いではない、「争わぬ為の闘い」へと赴いてゆく。
正直、殆どノーチェックであり、関心を持っていなかった映画だったが、何かの機会に予告編を観、その中のドニー・イェンの動きの華麗さに目を見張り、これは何かあるぞ、と足を運んだ映画だった。そして、観終わった後に、脳髄に震えるような興奮が走り続け、終映後もすぐには席を立つことが出来ないほどに魅了されていた。それは、目の前で展開する闘いの凄まじさ巧みさだけにあったのではなく、主人公イップ・マンの、その気高さに満ちた生き方に、深い感銘を受けたからなのだった。彼は、優れた武術家である以上に、豊かな心を持つ貴人でもあったのだ。
映画『イップ・マン 葉問』、実はこれは続編であり、『イップ・マン 序章』がこの作品以前にあると聞いた。これも是非観てみたいものだ。ちなみに、映画を観終わったあと、『燃えよドラゴン』のBDを買い求める為奔走したのは言うまでもない!

■イップマン 予告編


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