押してもダメなら引いてみろ!〜映画『運命のボタン』

運命のボタン (監督:リチャード・ケリー 2009年アメリカ映画)


「24時間以内にボタンを押せば100万ドルが手に入るが、代わりに見知らぬ誰かが死ぬ」というボタンを渡され、ボタン押しちゃったばかりにとんでもない目に遭っちゃう家族の話である。
誰もがこれを観て考えるのはそんなボタンを渡されたら自分は押すか?ということだろうが、倫理がどうとかいう以前に、これをゲームと考えるとボタン押す押さないは誰得?ということをまず考えるべきだろう。ボタン押すことで死んだ人間は損、儲かった自分は得、ボタン押さないとその逆、ということになるのだろうか?しかしそのボタンを渡した人間は?と考えると、これはギャンブルで言うところの胴元なわけで、胴元が自分の損をする話を持ちかける筈がない。だいたい「○○をすれば必ず儲かる!」なんていう話は、そんなに儲かるなら自分だけでこっそりやってりゃいいわけで、それを他人に教えようとするところで何かワケアリということになる。この胴元は100万ドル失って誰か死んでも、100万ドル失わなくて誰も死ななくても、実は誰よりも損をしないシステムの場所にいるわけだ。
しかし胴元にとってよりリスクがあるのはどちらだろう?ボタンが押されることで死ぬ誰か、というのは、不特定多数の、世界のどこかでいつも誰かしら死んでいる誰か、ではなく、100万ドルを受け取ることがトリガーとなり死ぬ誰か、ということだ。そして胴元は、100万ドルを誰かに渡すことでしかその人間を死に至らしめることができない。しかし100万ドルは、既に胴元の手元にありボタンを託された相手が押せば渡すことが出来る。つまり胴元にとって100万ドルよりも人の死のほうが重要になるということだ。ということはだ。胴元を出し抜くこと、胴元に勝つこととは、ボタンを押さない、という選択をすることになるのだ。100万ドルは手にできないが、少なくとも胴元には勝利できる。
一方、ボタンを押しちゃったことで起こった未来がここで描かれる。取り敢えず人は死に100万ドルは渡される。ボタンを押した夫婦は罪悪感に苛まれるがまあそういう選択をしたんだからしょうがないともいえる。問題はこのあとだ。その夫婦が、ボタンを持ってきた怪しいおっさん(の部下らしき人間)に付きまとわれるのである。おいおいゲームは終わってんのに付きまとってるってなんだよ?ヤクザのユスリタカリかっつーの。旨い話には裏があるとはよく言うが、まあそういう流れになるというわけである。要するにジェイコブズの『猿の手』と違わない単なる因果応報のお話ということになる。しかしこれでは当たり前すぎてつまらないではないか。
ただ、物語自体は「ボタンを押すか押さないか」というある種哲学的な命題がやはり興味を惹く。さらに、NASAの火星探査やNSAが絡むという設定は物語のスケールの大きさを感じさせ、中盤までは非常にミステリアスに進んでゆくのだ。このSFオカルトな雰囲気が実に『X-FILE』を思わせ、展開も予想外で飽きさせない。ここまでなら大絶賛だったんだが、ラストの救いの無さというか「そのまんまやないか」という結末が残念な作品だった。やはり「ボタンを押すか押さないか」ではなく「んじゃ引っ張ってみたらどうだ!」「とりあえずたたき壊してみようぜ!」ぐらいの発想の転換があったほうがよかったかもしれない。

運命のボタン 予告編


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