映画『くもりときどきミートボール』は世界終末SFだった

くもりときどきミートボール {監督:クリス・ミラー、フィル・ロード 2009年アメリカ映画)


俺の名前はフリント。アメリカの隅っこのハエのクソみてえな小さい島のハエのクソみてえな小さい町スワロー・フォールズで生まれ育った。田舎だ。クソど田舎だ。イワシ漁だけが生計を支えるこの退屈な町はスワロー・フォールズというよりもファッキン・サーディン・フォールズと言っていい。町中が魚の生臭い臭いに包まれ、飯を食っていようがセンズリをこいていようがその魚の臭いはどこにでも忍び込んでくる。そんな魚臭い町でバカどもが何食わぬ顔で喜んだり悲しんだり夢やら希望やら絶望やらを抱え込んで生きているんだ。クソだ。クソみてえな町だ。
俺の親父はハエのクソみてえな小さい釣具店で儲かりもしないクソ店主をやっている。漁師の教えがどうとかクソウゼエ戯言をモゴモゴ言うのが趣味だ。ご大層なこと言ってるがそのクソウゼエ御託を言う自分がクソ釣具店のクソ店主程度の負け犬だ。俺にまっとうな人生を生きて貰いたがってるがこんなクソボケの言うことなんか聞けるものか。俺の母親は10年前に死んだ。きっとこのバカ親父とどこまでもクソなこの町の退屈さに倦み疲れて死んだんだろう。クソ親父と町の退屈さが死にたくなるほどのものなのはこの俺が十分知っているからよく判る。
俺の夢は発明家だ。俺が子供の頃読んだSF小説のマッド・サイエンティストというのが格好良かったからだ。モンスターやら気の狂った発明をして周囲に恐怖と死をばらまくマッド・サイエンティスト。恐怖と死で世界に終わりをもたらすマッド・サイエンティスト。そうだ、世界なんか終わっちまえばいい。こんなクソで退屈な世界なんか無くなっちまえばいい。クソで退屈なバカどもなんてみんな死んじまえばいい。世界の最後の日に、このクソで退屈なバカどもが泣き叫び、おのれ等がどれだけクソで退屈なバカだったかを懺悔するがいい。懺悔しながら惨たらしく死ぬがいい。クソで退屈なバカは死ぬしかないのだから。だからこんな連中を皆殺しにする発明をすること、それが俺の夢なんだ。
だけど、本当はそんなのは単なる夢でしかない。ハエのクソみてえな小さい島のハエのクソみてえな小さい町で、発明家だなんだ言うのがどんなにクソ下らねえ戯言なのかはは十分分かっている。学校の勉強なんてまともにやったことがないからだ。クラスの連中と俺は違うんだって言いたいばっかりに「発明家になるんだ」なんて見栄を張ったけど、そんなもんは単なる嘘八百でしかないんだ。今の俺はクソ親父のちんけなクソ店で得たみみっちい小金で生活させてもらっているクソ下らねえクソニートでしかない。そんな俺はきっとクソ野郎なんだ。バカで退屈な連中に囲まれたバカで退屈な人間、それが俺なんだ。ああ、なにもかもクソだ。みんな死ねばいい。俺も、死ねばいい。
そんなある日のことだった。このハエのクソみてえな小さい島のハエのクソみてえな小さい町に、都会から、TV局がやってきたんだ。お天気お姉さんだっていうその女の子は、このハエのクソみてえな小さい島のハエのクソみてえな小さい町に住むハエのクソみてえな下らねえ俺に、なんだかキラキラキラキラして見えたんだ。都会の香りがするんだ。すっげえ可愛いんだ。すっげえイケてるんだ。彼女なら、きっと俺のことを判ってくれるんじゃないかと思ったんだ。彼女なら、きっと俺のことを好きになってくれるんじゃないかと思ったんだ。彼女が好きだ。彼女と一緒にいたい。
だから俺、彼女に近づいた。俺は彼女に好かれたかった。彼女に好き、って言って欲しかった。だから俺、嘘をついたんだ。「こんにちは、俺は町一番の発明家です。これからあなたに俺の発明品を見せましょう」って。彼女は目を輝かせてたよ。俺の発明品を見たい、って言ってくれたよ。ああ、俺は本当に幸福だ。彼女はきっと俺の部屋に来てくれるだろう。しかしその時きっと俺の嘘はばれるだろう。でも構いはしない。その時、俺は全てを終わらせる。この俺も、彼女も、この町も、この世界も。俺は発明をしたことがないけど、人を血塗れのミートボールに変えるあるものは持っている。これで全てを終わらそう。彼女と結ばれて、そして、全て、終わらすんだ。
――映画『くもりときどきミートボール』とは、こういう物語なのである。