京極夏彦の『数えずの井戸』はなんだかイマイチなのであった

■数えずの井戸 / 京極夏彦

数えずの井戸

数えずの井戸

京極夏彦があの「番町皿屋敷」を独自解釈で再構築した物語である。物語冒頭から、番町青山家屋敷において惨たらしい刃傷沙汰が起こり、おびただしい屍が累々と転がっていたが、誰一人としてその真相を知らない、という謎の事件が起こり、事件の後廃屋となった屋敷に怪異が起こることが町で噂されている…ということが読者に告げられる。そして物語は時間を遡りこの事件の真相を少しづつ明らかにしてゆくのだ。

まあそれにしても最近の京極小説の例に漏れず、あの分厚い本の中盤まで読んでも何も事件らしい事件が起こるわけでもなく、実のところ退屈で退屈でしょうがなかった。で、その中盤までっていうのがさまざまな登場人物たちの心象風景や言動を通して、彼らの性癖というか胸に抱えているものが語られるんだけど、これも例によって京極小説によく出てくるボンヤリしてたりバカだったり覇気が皆無だったり強迫観念で頭ニエニエになったりしているような連中ばっかりなんだよ。要するに頭が足りない連中と頭に虫が涌いてる連中しか出てこない、というロクでも無いお話なんだよな。

でまあ、中盤からこれらの人物の愛憎やら欲望やら虚無感やらが絡み合い、やっとドラマらしくなってくる。お菊の出生の秘密などは時代物らしい因縁めいた運命を感じさせ、これに人情話が加味されて、おおやっと面白くなってくるかと期待させる。ただ事態はどんどん展開してゆくというのに登場人物たちは相も変わらずボンヤリしてたりバカだったり覇気が皆無だったり強迫観念で頭ニエニエだったりでさ。もう読んでて焦れったくてしょうがなかったよ。これって結局ラストの悲劇を成立させる為に機械的に割り振られた性格だからなんだろうな。だから登場人物みんなが物語の駒にしか見えず、いつまでたっても「なんなのこいつら?」としか思えないんだよな。

まあイビツな人間やダメ人間を描きそこから人間の本質を探っていくなんていうのは文学が得意とするものだけれど、この『数えずの井戸』はそういう形で人間を描くということには興味が無いみたいなんだよ。結局描かれるのはざっくり言うと「しょーもない連中がしょーもないが故にしょーもない目に遭う」というだけのことで、普通ならそんなもんお笑いにしてお茶を濁すしか無いんだが、御大層な悲劇に仕立て上げたいがために勿体ぶった書き方をしているだけなんだよな。だから読み終わっても「こうなったのもこいつらみんなバカだったせいなんだからしょうがねーんじゃねーの?」とポカーンとしちまったよ!なんだか京極夏彦の長編ってどんどんつまんなくなってくるなあ。