「でもやるんだよ」とレスラーは言った。

■レスラー (監督:ダーレン・アロノフスキー 2008年アメリカ映画)

■最下位の戦い方

「最下位の人間には最下位の戦い方がある」と言ったのは西原理恵子だったか。

若さも体力もとうの昔に擦り切れ、時代に取り残され、栄光は過去にしかなく、今時流行らない不器用なだけの生き方を愚直に続け、家族からも世間からも社会からも用無しで役立たずの烙印を押され、誰に愛されるわけでもなく、誰に顧みられるわけでもなく、誰に理解されるわけでもなく、そんな自分に残された時間は、もうあまりにも少ない。ただ一つ出来るのは、昔と同じように、リングの上で戦い続ける事だけだ。なぜならそこにだけ、自分の居場所があるのだから。

ミッキー・ローク主演、映画『レスラー』は、そんな、"居場所"を巡る物語である。

■ダメ親父の彷徨

かつて満場の観客から人気を集め活躍していたプロレスラー、“ザ・ラム”ことランディ(ミッキー・ローク)。しかし今やスーパーのバイトで糊口をしのぎ、トレーラーハウスの家賃さえ払えない落ち目のドサ廻り興行をこなしているだけのしがない毎日だ。そんなランディはある日心臓発作を起こし、リングに上がれない体になってしまう。孤独と失意から、離婚した妻との一人娘ステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)に会おうとするも、これまで家族を顧みなかったことをなじられ追い返される。たった一人、ランディが好意を寄せていたストリッパーのキャシディ(マリサ・トメイ)にも、二人の一線は越えられない、と告げられる。そして全てを失ったエディは、ある決意をする…。

エディは単なるダメ親父だ。駄目人間とは言わないけれど、社会や家庭といった場所では、まるで通用しない人間だ。プロレスに打ち込んできた人生は、それは間違ってはいなかったのだろうけれど、その為に、他のあらゆる事を顧みず、ないがしろにし過ぎていた。そういうふうにしか生きられなかったと言えばそれまでだが、それで全てが赦されるわけではない。そしてどこかでツケは回ってくる。ツケが回ってきたときに、今までのことを反省したって、それはもう遅すぎる。なにもかも取り返しが付かないんだ。なにもかも自分の責任なんだ。全て自分が悪いんだ。自業自得なんだ。だがしかし、そうなってしまった人間は、もはや野垂れ死にしてしまえば良いというのか。人は、これまで犯してきてしまった自らの過ちを、決して赦される事はないとでもいうのか。

■"居場所"を巡る物語

人は常に"居場所"を求めている。自分が何であり、誰であるのか。何のために生き、何のために死ぬのか。世にある沢山のコミュニティ、グループ、セクトは、それらを己に認識させるために存在していると思う。それは恋人であったり、家庭であったり、会社であったり、政治信条であったり、国家であったりする。そして今この現在ではインターネットに様々なコミュニティとしても存在している。はてなでも、mixiでも、2chでも、出会い系サイトでもだ。人はそのようにして"居場所"を求めてしまうものなのだと思う。そしてこの映画『レスラー』のランディにとって、その"居場所"とはプロレスのリングであった。それを失くした時、彼が欲したのは家族であり、恋人であった。都合が良いといえばそれまでかもしれない。だが、人はどうしても、それを、"居場所"を、求めてしまうものなのだ。そして、全ての"居場所"を失くしたランディにとって、再び足を踏み入れれば死地にしかならないリングの上にしか、最後の安らぎ場所は無かったのだ。しかし、"死"によってしか人生が購えないというなどということが、正しいことだとは思えない。では、ランディは、どうすれば救われ、赦されるのか。

自分にとっての墓場になるであろうリングを臨みながら、ランディはキャシディにこう言う。
「もう自分には何も無いんだ」と。
しかし、そんなランディに、キャシディはこう返す。
「私がいるじゃない」と。

面映い言い方だけど、愛って、こんなことなんじゃないか。自分が誰かの居場所になること。誰かが自分の居場所になってくれること。赦すことや、受け止めてあげられること。映画『レスラー』は、居場所を無くしたダメ親父のための、最期のギリギリのラブ・ストーリーだったのだと思う。

■The Wrestler - Official Trailer