■ファースト・コンタクト3部作
スタニスワフ・レムの『エデン』は異星における異星人とのファースト・コンタクトを扱った3部作の1作目である。本国における刊行は1959年、3部作の2作目であり彼の最も有名な作品であろう『ソラリス』が1961年、そして3作目の『砂漠の惑星』が1964年の刊行となっている。レムのこの3部作の真にユニークな部分は、それが”接触”ではあっても決してコミュニケーションではなく、むしろ最後まで全く意志の疎通が図る事が出来ないといったディスコミニュケーションの物語であるという点にある。
このレムの態度は、後に執筆される『天の声』『大失敗』にも受け継がれることとなる。これは、「宇宙は地球的な諸条件をたんに機械的に移し変えただけの領域ではない(『エデン』解説)」とする思想の元に書かれたものであり、即ち、我々が想定できるような知性や理性、倫理、文化、生態などを当てはめようなどといった行為は全く通用しないのだ、ということなのである。そして、そこに描かれるものは、理解などというものを全て拒否した、絶対的な断絶なのである。その断絶の中で人類はあらゆることを試みようとするが、それが成功する事は決してない。全ては不可能であるというペシミズム。レムSFの凄みは、まさにその部分にあると言ってもいいだろう。
■社会主義の影
この物語『エデン』は地球人の乗った宇宙探索船が見知らぬ惑星に不時着、そこで不可思議な文明と生態を持った知的生命体と接触する、といったものだ。そこでは得体の知れない巨大な工場が建ち、そこで製造されたと思しき生物の死骸が累々と遺棄されている。そしてそこで出遭った知的生命体は労働部分と思考部分が別々の生物で成り立っている共生生物であった。探索船の地球人達はこの生命体とコンタクトを図り、この生命体が遠い過去彼らの政府の政策によって自らを人工的にデザインした生物として生成し進化したものであること、システムエラーの累積により不良品の肉体が製造され続け、それらが遺棄されているということを知る。
東欧SFを読むときにはどうしてもその社会主義・共産主義社会といった背景を抜きにして語ることが出来ない。このエデンの知的生命が、思考部分と労働部分が別の生物であり、そういった形へと科学的に生産された生物であるとするこの物語の設定は、マルクス主義における史的唯物論のグロテスクにカリカチュアされた終焉のようにさえ見える。思考と労働の分離といった部分には当時のポーランド社会主義政権上層部と下部組織の思想的乖離という暗喩を見て取れるだろうし、それらが異星の政権によって人工的に作られた生命の状態であり、しかしそれが失敗した計画であった、といった部分にも、マルクス主義による計画経済といういわば人工的な背景によって構築された社会体制が硬直し、歪な構造へと陥穽してしまっていることへの揶揄として読むことが出来る。
ただ、ここでレムが社会主義・共産主義批判の為のみにSFを書いたという誤解をすることは避けたい。創作者が意識しようがしまいが、自らの社会背景をその作品から払拭することは殆ど不可能だ。だから、東欧SFには、西側の創作者とは違う創作の流儀が根底にあるということを憶えておけばいい。そしてSFというジャンルは、どうしても現実というものの陰画として描かれる反面があるものなのだ。
■失敗した”楽園”
物語としてみると、ファースト・コンタクト3部作の第1作目ということからか、テーマがまだ手探り状態であり、未完成な印象を受ける。後に発表される2作は、異星生命体と人類との完膚無きディスコミュニケーションが描かれるが、この『エデン』では取り合えず異星生命体とのコミニュケーションが成り立っている。ただこれでは、単なる未知の惑星への冒険譚で終わってしまうことになる。設定それ自体にも甘さが目立つ。宇宙探索船はたまたま未知の惑星に不時着し、そこはたまたま人間の呼吸可能な大気があり、たまたま知的生命体がいて…といった具合に、偶然の要素が多すぎる。
また、40年以上前に書かれたSFということもあってか、テクノロジー描写にはかなりの古臭さを覚えるがこれはいたしかたないか。あと訳文のせいなのか、異星の光景の描写が若干抽象的過ぎて、読んでいてイメージし難く、歯痒い部分があったのも確かだ。ただし、その後のレム作品で開花するテーマの胚芽があちこちに見え隠れするといった点では興味深い作品だという事も出来る。そういった意味では、この『エデン』は、レム研究には欠かせない1冊ではあるけれども、レムを初めて読む方には別の著作をお薦めするべきだろう。