新帝都物語 維新国生み篇 / 荒俣宏

新帝都物語―維新国生み篇

新帝都物語―維新国生み篇

■新たなる帝都の物語
今春発売された『帝都幻談』 に次ぐ荒俣宏帝都物語新章。時は明治維新前夜、一つの国さえ変えてしまうといわれる伝説の神器「瑠璃尺」が奪われた。奪ったのは古より日本を覆そうと怨念を滾らす魔人・加藤重兵衛保徳。そしてそれを迎え撃つは国学者・平田銕胤、新撰組土方歳三。舞台はみちのく会津若松から蝦夷地・箱館五稜郭へ、日本の歴史の影に葬られてきた怨霊祟り神までをも巻き込んで、妖術飛び交い魍魎跋扈する霊的戦争が今、始まろうとしていた。

物語的には『帝都幻談』の数年先の時代になっており、登場人物も被さっている。かといってこの作品は『続・帝都幻談』なのではなく、この作品だけを読んでも何も問題は無い。むしろ、水木しげる大本尊とのコラボレーション的な作品であった『帝都幻談』と比べれば、より”帝都物語”的な物語へと収束している。そして”新”と冠された今回の作品は質・量ともこれまでの帝都物語シリーズで最高の出来と言っていいのではないか。なによりその情報量が恐ろしく膨大かつ濃密であり、さらに単なる知識の羅列なのではなく物語と有機的に結合しているのである。そしてその知識とは、日本、さらに中国の故事、古代史も含めた《オカルト》の知識なのである。

■”矩”と”規”
《オカルト》とはなにも死霊や悪魔や魔法使いの事ではない。《オカルト》とは即ち”隠されたもの”という意味である。そして”隠されたもの”とは、この世界の森羅万象、ありとあらゆるものの陰に隠された”意味”なのである。数秘術が数字そのものに”意味”を見出し、占星術が星の運行に”意味”を見出すように、本来客観的なものでしかない”自然”に、人間の”観念性”でもって主観的なラベルを貼り付けたもの、それが《オカルト》なのだ。例えば山羊の生首や人脂で作った蝋燭は、単なるそういう物体なのであり実際は”意味は無い”。しかしそれに呪術的な”意味がある”とされたとき、そしてそれがある種の共同体で共通の認識とされたとき、呪術は現実的な効力のあるものとして”意識”されるのである。そしてそれらを大系化した、客観的世界の裏にある主観的世界の集大成こそが《オカルト》と呼ばれるものなのだ。

今回の『新帝都物語』で主役となるのは、なんと矩と規、即ち定規とコンパスにまつわるありとあらゆるオカルト知識である。測量そのものに霊的な意味を見出し、都市、国家、ひいては世界全体の創造にまで言及したそのオカルト知識の壮絶さには息を呑まざるを得ない。整数を数・一次元の実態とすれば、無理数とは図・二次元の空間であるとする幾何学の説明から始まるそれは、整数とは現世(うつしよ)=”目に見える世界”であり無理数とは幽世(かくりょ)=”目に見えない世界”であると説き、整数と無理数とを図示せる矩と規=定規とコンパスこそはこの世界の在り様を司るものであると結論付ける。

さらに矩と規の逸話は日本神話へと飛び、イザナギが神矛アメノヌボコ(定規)で混沌をかき混ぜる(コンパスで弧を描く)ことから国生みが起こったという伝説、さらにイザナミイザナギの婚姻が天御柱(定規)を回ること(コンパスで弧を描く)によって成就したことから矩と規が物事の成り立ちと和合に関わる根本であるということを見抜く。この凄まじいアレゴリー。そして神聖なる数値を備えた矩と規でもって国生みを成せば、そこには永年の繁栄を誇る国家が生まれ、また、忌まわしき魔の数値を備えた矩と規を用いれば暗黒の冥府が生まれるだろう、と語られる。物語は、この”魔の尺”を手に入れた魔人・加藤と、”正なる尺”でもって加藤に挑む平田、土方の、”定規とコンパスを巡る戦い”へとなだれ込んでゆくのだ。

■”国生み”の時代
そして時代は明治維新である。この物語は、王政復古による新たなる尊皇の時代の”国生み”を願う平田銕胤と、新政府軍に追われ函館へと敗走しながら、五稜郭蝦夷共和国を打ち立てる”国生み”を夢見た新撰組土方歳三と、この五稜郭を拠点に呪われた怨霊達の邪悪な冥府を”国生み”せんと画策する加藤重兵衛保徳との、それぞれの”新たなる国生みの時代”への思惑が交錯するドラマでもあるのだ。クライマックス、この世に黄泉の世界が押し寄せ、腐臭にまみれた死者達とそれを押し止めようと命を賭す生者達が繰り広げる呪術戦争は壮絶の一言である。世界を破壊せんと邪悪な哄笑を撒き散らす魔人・加藤と、死に場所を求めて凄惨な生き様を見せる土方歳三の、生と死のコントラストもまた眩しいぐらいに鮮烈だ。鬼才荒俣宏畢生の大傑作。読むべし。