ゾディアック (監督:デヴィッド・フィンチャー 2006年アメリカ映画)

1969年アメリカ。男女カップルの殺傷事件が起こるが、その後新聞社へ犯人の犯行声明が送られ、これが連続殺人であることが告げられる。犯人は”ゾディアック”と名乗り、謎めいた暗号文と次の犯行を匂わせる脅迫文が綴られていた。繰り返される犯行にアメリカはパニックに至り、そして未解決のまま月日だけが経っていった。新聞社員の一人ロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)はこの事件に興味を持ち、迷宮入りしかけているこの事件の謎をたった一人で解こうとしていた。そして20年が経ち…。

監督デヴィッド・フィンチャーということで大いに期待して観に行った『ゾディアック』です。フィンチャーといえばやはり『セブン』、そして何よりも『ファイト・クラブ』でしょう。『ファイト・クラブ』はオレ的映画史の中ではベスト10に入る名作だと思ってます。フィンチャーの映画の特徴はその冷え冷えとした画面造りであり、そして「完璧なシステムを作らなければ気が済まない偏執狂の人間たちがシステムに踊らされる物語」というテーマを繰り返し描いているという所でしょうか。初監督作品『エイリアン3』はエイリアンを追い込むために周到に作られた作戦が最後に瓦解してゆく様が描かれ、『セブン』では神の如く振舞う殺人鬼の完全犯罪が人々を恐怖に陥れ、『ゲーム』ではジグゾーパズルのピースを最後の一個まできっちりはめ込んで行く様な”完璧なゲーム”が繰り広げられ、『ファイト・クラブ』では社会の”システム”を覆すファイト・クラブという”システム”に逆に乗っ取られる男の悲喜劇を描いた作品で、『パニックルーム』は文字通り”パニックルーム”というシステムそのものを主人公にした映画です。さてこの『ゾディアック』ではそれがどのように表現されていたでしょう。

実のところ今回の『ゾディアック』はそれほど精彩のある映画ではありません。ドキュメンタリー小説の映画化ということでフィンチャーの自由な発想を入れ込む隙が無かったのかもしれません。映画は二つのパートに分けられます。前編は”ゾディアック”が犯行を繰り返し、それに警察も新聞社も市民たちも踊らされパニックを起こす、という部分です。このパートは犯人ゾディアックが今度はどのような凶行に及ぶのか、誰がターゲットになるのかというサスペンスと、警察の捜査の行方が描かれ、緊張感を孕みつつ映画は進んでゆきます。この前半は良いペースなのですが、後半に入ると進展しない捜査、犯行を止めた犯人、と、状況的には何も起こらない部分で主人公グレイスミスが取り憑かれたように一人謎解きに挑んで行くのです。こまかな証拠を洗い直し、新たな発見を一つずつ積み重ねてゆくグレイスミスの推理は流石なものがありますが、この”推理だけで何も立証されない”描写が長すぎるのです。確かに実際に20年以上も掛けてこつこつと一人奮戦したグレイスミスという人物の執念には恐るべきものがありますが、映画の映像として見せられると間が持たせられないのではないでしょうか。

結局現実には迷宮入りした事件である為に、何か煮え切らないものを残したまま物語は終わらざるを得ないのです。そしてそのようなドキュメントを映画として撮る時、監督はただ事実を並べてゆくのではなく、それを通して表現されるべき”何か”が必要になってくるのだと思います。そして、この映画でフィンチャーが描きたかったのはあたかも『セブン』のように犯人ゾディアックの残虐な犯行を描くことではなかったようです。実のところ、アメリカの猟奇犯罪を見聞きし慣れると、ゾディアックの犯行は単なる連続殺人という以外に、それほどの猟奇性を感じません。”謎めいた暗号”も実はたいした重要なファクターではないし、”ゾディアック”というオカルトの臭いがする名前自体にもそれほど深い意味は無いようなのです。つまり『セブン』『羊たちの沈黙』のようなサイコパス物を期待すると肩透かしを食らわせられるのです。

この映画でクローズアップされるのはむしろ、映画後半の取り憑かれたように犯人を追うグレイスミスの描写でしょう。彼は新聞社の人間とはいえ、実は単なる新聞挿絵書きでしかないのです。犯人とは何の利害関係も接点も無く、殺人犯への義憤に駆られた捜査という訳でもないのです。彼がゾディアックの犯罪に取り憑かれる発端、それはゾディアックの最初に送った暗号文の解読に魅せられたことから始まります。逆に言えば、たったそれだけの事から20年にわたる妄執が始まるというわけなのです。彼が何故それまでにゾディアックとその暗号に執着するのか映画では何も掘り下げられていません。だからこそ、映画で描くべきだったのは、無意味な暗号を執拗に作り出す犯人の心理と、その暗号に魅せられるグレイスミスの心理の接点であり、その心理が複雑に絡み合う様だったのではないかと思います。つまり、グレイスミスがゾディアックに自らの映しえを見出すことによりこの偏執的な個人捜査の理由を導き出すべきだったのではないか。それが無かったから、今回の作品は「完璧なシステムを作らなければ気が済まない偏執狂の人間たちがシステムに踊らされる物語」であるフィンチャーの持ち味を生かしきれない作品となってしまったのではないでしょうか。

■Zodiac Trailer