レディ・イン・ザ・ウォーター

レディ・イン・ザ・ウォーター 特別版 [DVD]

レディ・イン・ザ・ウォーター 特別版 [DVD]

■シャマランという監督
シャマランというのは不思議な監督である。作品の完成度や評判は置いておくとして、その映画の中での時間の流れ方が独特なのだ。そしてどの映画でも感じさせるじっとりと濡れたような色彩感覚はある意味官能的でさえある。他のハリウッド監督と比べても、その背景にある世界観というか宇宙観が随分と違うような気がする。それは死生観にも通じ、だからこそ必然的にドラマというものに対する考え方も違うのではないだろうか。彼はどの映画でも頑固に所謂”ワン・アイディア・ストーリー”を押し通すが、これはもう、頭で考えた、とか戦略的に、とかいうよりも、シャマラン自身の歩幅、呼吸、バイオリズム、様々な彼の生い立ちの背景にあるものがそうさせているとしか思えない。彼の作品が賛否両論ありながらもこれだけ注目されるのは、実はそういった作品自体の”感触”が、観客を魅せるからではないのだろうか。そしてこれがシャマランの生まれた国であるインドの血がそうさせるのだと考えるのは穿った見方だろうか。

■ファンタジーの中の観念性
さて今作はジャンルで言うならばファンタジーということになるのだろうが、そこはやはりシャマラン流の一歩引いたような作りになっている。彼の作品『アンブレイカブル』がコミックヒーロー物というジャンルをどこまでも現実的に描いた作品だったように、この作品でもファンタジーというジャンルを現実的に再現するということはどういうことなのか、というのが作品の主題になっていると思われる。ことファンタジーというジャンルに関しては、例えば異世界なりクリーチャーなりがアプリオリに”ある”というお約束の元にその物語を成り立たせているが、このシャマランのファンタジーでは最初から現れる犬のような姿をした怪しげなクリーチャーの存在を除いて、ほぼ全てのファンタジー的な設定が”語られる”ということでしか存在していない。”水の精”である少女もその外見は極普通であり、羽が生えているわけでも魔法を使うわけでもない。ファンタジーにありがちな目くるめくような異世界の情景や生物を具体的な映像として描くことを殆ど拒否した状態でこの物語は進められて行くのだ。そしてその”水の精”なり”犬のようなクリーチャー”の帰属すべき異世界は、中国かどこかで言い伝えられる”伝説”が”語られる”という形でしか存在していないのだ。”語られる”=言葉の世界のみによって存在する異世界とは何か。それは観念である。即ちシャマランは、ファンタジー世界というものはその観念の裡にのみに存在し得るのだということを表現したかったのではないか。

例えばファンタジー世界でもよく扱われる呪文というのは言葉である。異界の言語であると言えば言えるのかもしれないが、基本的に人間の言葉が、自然界に何がしかの作用を与えるというのが呪文である。つまりそれは、人間の観念が自然を変容させ得るという概念であり、観念が自然を凌駕できる、という考え方なのだ。そしてファンタジーに登場するクリーチャーは現実に自然界に存在する生物の複合種、いわゆるキメラの形態であったり、自然現象をあたかも生命体の如く肉体化させたものが多い。これらはその素材となった生物・無生物への人間の”イメージ”を掛け合わせたものである。物理的生物学的に無理な生き物でもそれが”イメージ”なら存在し得る。また”精霊”などではそれは”イメージ”そのものである。つまりそれらも人間の観念を実体化させた姿であろうと思う。ファンタジーは”それ”が”存在する”と同意した場所から出発する。そしてそれを表出させるのはあくまで人の想像力の賜物である。

■”ロール・プレイング”
映画では、”水の精”を助ける為にあたかもRPGのパーティーを集めるが如く、それぞれの”役割”を担うとされる人たちが集められる。しかし”役割を担う”というのはRPGロール・プレイング・ゲームの語義そのものである。”役割を担う”と自分が意識した時、人はその役割に”なる”のである。「私はヒーラーである」と意識した時に人はヒーラーとなり、「世界を救う戦いが存在する」と思ったときにその戦いは存在する。そしてそれも観念であり、観念の現実化である。それが如実に感じるのは、映画ではそれらの言葉が語られ、人々は自らの”役割”に成り切りはするものの、映画の画面に立っているのは、映画が始まったときと同じ平凡で草臥れた人々の姿でしかなく、生活感溢れるアパートメントが何一つ変わらずあるだけだからだ。つまり、観客にとっても映画の中の現実がファンタジー世界へと変容したのを認識するのは目の前の登場人物に”役割”が”ある”と意識することによってであり、その時、ありふれたアパートメントの光景が、世界の運命を担う戦いの場に見えてしまう、という観点の転換が起こるのである。
ラスト、Kマートあたりで買った安物の洋服しか着ていない人々が、モップや箒を持って邪悪なクリーチャーに立ち向かう情景があったが、その時、心の中で、彼等はミスリルの鎧に身を包み、エクスカリバーを携えた英雄としてそこに立っていたのかも知れない。何故なら、全ては観念の表出したものであるからなのである。