ミュンヘン (スティーブン・スピルバーグ監督 2005年アメリカ映画)

1972年ミュンヘンオリンピックにおけるパレスチナゲリラテロ事件へのイスラエルの報復は、テロ首謀者たちの暗殺という形で実行された。その作戦のために集められ暗殺を遂行してゆく工作員たちの葛藤と苦悩を描く。今回も長いからね。我慢して読んでね。


ミュンヘンオリンピック事件は遠い記憶ながら覚えている。それはリアルタイムでニュースで見た映像なのか、記録映画で見た映像なのかは定かではないが。実は誰も言及しないのだが、このミュンヘンオリンピックには記録映画が存在し、オレは子供の頃に劇場で見ているのだ。この映画は『時よとまれ君は美しい ミュンヘンの17日』*1と名付けられ、アーサー・ペン、ミロシュ・フォアマン、クロード・ルルーシュら、そして日本からは市川崑が監督として参加しており、音楽はヘンリー・マンシーニ 、また、脚本には谷川俊太郎の名も挙げられている。記録映画というのは概して退屈なものだが、テロのパートだけはそこだけ禍々しく血腥い異様な雰囲気に彩られており、当時日本でも連合赤軍事件が起こっていた事もあって、子供ながら世界の暗澹たる一面を垣間見せられて恐怖していたことを覚えている。


さてこの映画は様々な意味で映画監督S・スピルバーグの現在の内実を写し取ったもののような気がする。『ミュンヘン』は彼の撮った『シンドラーのリスト』『宇宙戦争』などの映画とどこか地続きのように感じられてならない。そしてこの映画はこの間観た『ホテル・ルワンダ』が”殺される側の論理”について描いた映画であったのに対し、”殺す側の論理”を描いたものとして対比して観たことが個人的に面白かった。


暗殺もそれ自体は任務であり”仕事”である。暗殺者たちは気の狂った殺人鬼でもなんでもない。むしろ透徹した理性と研ぎ澄まされた知性を持った者たちであったろう。彼等はシオニズム社会の社会的精神的暗部をどぶさらいし”し尿”処理するべく編成された工作員であると言うだけのことだ。そして問題はそういう形でしか処理されえない彼らの背負う社会の圧倒的な暗さとややこしさであり、終わりの見えないトンネルを潜っているかのような絶望感である。殺すだけでは何も解決しないにも関わらず殺し続けなければならないという矛盾。そして冷徹な殺人機械として自らを律するはずの彼らの”理性”を狂わせたのは、”人間的要素”という計測不能な不確定因子だった。哀れむこと、慈悲を覚える事、これは計算でも数字でもない。彼等はまさに機械ではなく人間であるからこそ苦悩し葛藤する。


国家と個人、大義と私情。暗殺の成功を祝うと同時に自らの子供の誕生も祝うというアンビバレンツ。しかしこの二重思考の有り様は映画の諜報部員たちだけのものではない。この日本という国で現実に暮らす我々の置かれた社会や企業といった”巨大な機構”と個人との関係にも容易に結びつく。人は社会の中でこの二つの要素を両立しようとしてしかし引き裂かれてゆく。オレはG・グリーンの『ヒューマン・ファクター』というエスピオナージュ小説のタイトルがとても好きだ。人間的要素。”巨大な機構”と個人とが拮抗するのは人が歯車ではなく”人間的要素”を兼ね備えた存在だからである。そして、引き裂かれた個人は、どのように自分を取り戻せばいいのだろうか?


物語はしかしクライマックスにおいて強烈なカタルシスも結論を与えることも無く終わる。この暗殺作戦自体が11人全員を殺害させて終わった訳ではない以上、なにかもさもさとした虚脱と疲労感だけを残して終わらざるを得ないのだ。未だ出口の見えないまま報復合戦が続けられている現在へと地続きになっているからこそ、収まりのいい結末を迎えられないまま終わってしまうのである。映画としてしては終焉するのだけれど、現実における苦渋と悲惨は終わってはいないと言う意味で。だからこそ映画『ミュンヘン』は砂を噛む様な苦くもどかしい幕切れを迎えるのだ。


そしてラスト、登場人物たちが画面の外に消え去りスタッフロールが流される寸前のマンハッタン川の映像では、対岸に今は存在しないWTCVFXで再現しその中心に据えて映し出していたことを決して見逃してはならない。1973年に施工完了したWTCはこの時まさに産声を上げたばかりだったはずだ。『宇宙戦争』で911テロルをSFの形で映像化したスピルバーグは、この『ミュンヘン』でテロ報復に血道をあげるアメリカの”今”をどこかに重ね合わせているのだと思えてならない。


シンドラーのリスト』で箱舟に乗ったユダヤ人たちが辿り着いたイスラエルが、その後どのような苦難を再び歩むのか。この映画はユダヤ人の血が流れるスピルバーグのルーツ遍歴の旅(=映画)の第二章でもある。しかしこうなったらスピルバーグは”私の中のユダヤ”映画として、イスラエル建国の瞬間を描いた映画『栄光への脱出*2スピルバーグ・バージョンとしてリメイク/リモデルするしかないのではないか。またSFの形へと仮託するのでも構わないけれど。今のスピルバーグは確実にそっちのほうを向いているような気がする。


また、映像の独特の感触は撮影監督であるヤヌス・カミンスキーの手腕に負うものが大きい。彩度を落とした寒色系の色彩、ざらついた粒子の映像でもって映し出されるそれは「銀飛ばし」と呼ばれる技法らしいのだが、映画の性格自体も決定付けてしまうような画面処理である。『プライベートライアン』あたりからから顕著になった手法のように思うが、『マイノリティ・リポート』『宇宙戦争』でもその表現方法は生かされていた。粗い粒子の画像からは情緒性を廃した非情でドキュメンタリータッチの物語が立ち上がってくるのだ。


それにしても映画の中で一番気になったのは”情報屋”ルイと彼のパリ地下組織”ル・グループ”、そして”パパ”と呼ばれるその首領の存在だ。「国家など信じない」と言い放ち、奇妙に美しいコミュニティに住む彼等は本当に存在したのだろうか?彼等の目的は何だったのだろうか?ここにも得体の知れないヨーロッパの暗部が確実に存在する。リアルな面持ちの俳優を集めたこの映画の中でルイを演じたマチュー・アマルリックだけが妙に非現実的で、逆説的に彼が最もリアルさを漂わせた存在だった。