17歳のカルテ

自殺未遂からボーダーラインケースと診断され精神療養施設に入院することになった少女の精神的軌跡。原作は実話であり、ベストセラーとなったスザンナ・ケイセンの回想録「思春期病棟の少女たち」。
境界性人格障害と呼ばれる心の病*1を扱った物語ではあるけれど、でもこれは悩みや苦しみ、世界との断絶についての物語として観るよりは、10代の少年少女たちが誰でも持つセンシティヴィティについての物語だととったほうがいい。主題は一見重たいのだが、物語の中心として描かれるのは主人公が療養所で出会った同じ病に苦しむ若者たちとの友情である。
また時代は1960年代後半、ベトナム戦争の影が色濃く漂う時代ではあるが、気にしなければいつの時代とでもとれる物語になっている。ここからも時代性が与える個人への精神的な重圧を描くものではなく、あくまで普遍的な青春の群像を描きたかったということが伺われる。
例えば精神療養施設と患者たちの物語としては、舞台劇から映画化されたジャク・ニコルソンの『カッコーの巣の上で』などが有名だと思うが、これは療養所をひとつの閉鎖された社会と捉え、管理社会と人間との相克として描いたものだったが、この『17歳のカルテ』ではやはり療養所は閉鎖された社会ではあるが、『カッコーの巣の上で』とは逆に患者たちの精神的避難所=サンクチュアリとして描かれている。
思春期にはホルモン分泌の作用によって精神も肉体も脳の構造さえ大きく変化してゆく。この時少年少女たちはそれまでの安寧とした子供時代から荒野のような現実世界へとぶち当たることになる。この葛藤や逡巡が大人へなる為の通過儀礼となるのだろうが、その揺れ動きがあまりにも大きいときに、彼らは世界も自分も傷つけようとしてしまう。しかし世界/自己の否定は新たな世界/自己を再構成しようとするからこそなのだ。そしてこの成長の痛みに耐えかねられなくなったときに人は病むのかもしれない。*2
この『17歳のカルテ』ではそんな心に傷を持った少女たちの交歓を描くものであるが、ことさら彼女たち個々の心の痛みをクローズアップするものではない。これは痛みについての物語ではなく、どのように自分と向き合いそして社会と対峙して行くかが物語の主題だと思うからだ。痛みはあったろう。しかしそれにだけかまけていては前には進めない。そして前に進むこと、それは”希望”する、ということだ。
なによりこの映画を心温まるものにしているのは同じ心を病む”仲間”たちの存在だろう。他人の痛みを理解することが、自分の痛みと向き合うことなのだろうと思う。この療養所はそんな彼女らの”保留”の場所であり、そこには現実とは違う時間が流れている。原題 GIRL,INTERRUPTED(中断された少女)にはそんな意味が込められているのだろう。この映画の世界にはどこか夏休みの寄宿舎のようなエアポケットに似た”大人になる執行猶予の時間”がある。共犯幻想にも似た、自分たちだけが共有する秘密の時間。なにがしか、この世界に軋轢を覚え傷いついたことのあるものなら、この映画のそんな”微温”が、懐かしい子供の頃の思い出のように、まどろみの中で見る夢のように、穏やかに心に沁みてくるのだろう。
しかしそんな日々もいつか終わる。退院した主人公の心に去来する寂寥感、それは病院の仲間たちとの別れであると同時に、”子供時代の終わり”に対してであったのだろうと思う。ちなみに、主人公の二人、スザンナとリサは、病院の外で、再び会うことができたのだそうです。

*1:境界例境界性人格障害)になぜ「境界」(ボーダーライン)などという名前が付いたのかというと、最初のころ神経症と精神病の境界領域の症状を指して境界例と呼んでいたからです。しかし、今では境界性人格障害として一つの臨床単位となっています。症状は非常に多彩で、一見何の問題もないような人から、アダルト・チルドレンと言われるような症状や、リストカット(手首を切る自殺未遂)を繰り返すケースや、幻覚や妄想を伴って、まるで分裂病かと思われるような激しいものまであります。全体的には心の不安定さや急激に変化しやすい感情などが特徴です。"境界例とはなにか"http://homepage1.nifty.com/eggs/borderline.html

*2:実際は境界例の発症は幼児期に受けた精神的外傷から来るとされている。