- 作者: 花輪和一
- 出版社/メーカー: 青林工藝舎
- 発売日: 2007/05/01
- メディア: コミック
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その為か、花輪の物語は宗教色の濃いものが多い。それも特定の宗教の教義を説いたものなのではなく、神という名の非現実に仮託しなければ、もはや自らの存在さえ否定しなければならないという、絶望的な現実否定なのである。だから花輪の物語は、現実的な状況においては誰一人救われない。救われた、あるいは救いがある、と思う心の中にのみ、救いは存在するのである。このような構成で漫画を描くものは日本で彼一人だろう。だからこそ花輪は日本漫画界に於ける稀有な才能を持った鬼才なのだ。
例えば『へそひかり』という作品を紹介してみよう。日本中世のどこかの村、ここでは村主が村人達を家畜のように支配し、その村人達も家畜として何の疑問も無く村主を崇め奉っていた。村人達は村主の寵愛の印である焼き印を尻に押してもらうことだけが喜びだった。その為に村人達は村主に性奴隷として進んで身を差し出し、不具者になるのも厭わず村主の財産を守った。しかしあまりに贔屓にされていた村人夫婦が他の村人に嫉妬を買い、リンチを受け殺害される。この一部始終を目撃していた村の少女は「こんなのおかしい」と一人悲しむのだが、そこへ唐突に空から仏の手が降りてきて少女の"苦しみの神経"を引き抜く。苦悩から開放された少女はにっこりと笑い、「そうか わかったぞ この世はうその世界だ もっといい 本当の世界は 別にあるんだ」と一人頷く。物語はこれで終わりである。この少女はこの村でこれからも生き続け、他の村人と同じように家畜として生きるだろう。つまり現実的な状況は何も変わらず、家畜のような生からは誰も救われていない。ただ少女の心の裡にのみ、輝くような涅槃の世界を垣間見た喜びが存在するのである。
救いというものが、世界を決して変えないのだとしたらそれは救いなのか。あるいは、世界を変えることではなく、心の裡にのみ救いを見い出すことが救いなのか。このように、花輪の作品は、魂の救済とは何かについて問いかけるのだ。