幻想少女戦争・癲狂院地獄篇〜映画『エンジェル・ウォーズ』

■エンジェル・ウォーズ (監督:ザック・スナイダー 2011年アメリカ映画)

■ハイテンションなイメージ・ビデオ作品

主人公の名はベイビードール、彼女は、母の死後その遺産を狙う義父の謀略により、妹を失い、自らもまた精神病院へ強制的に送り込まれてしまう。その病院で彼女を待つのは、人格全てを失う恐ろしい手術、ロボトミー。5日後に控えたその手術を前に、彼女は自由を求めて夢想する。夢想の中の彼女は娼館の新入りダンサー。そしてさらに彼女は夢想する、夢想の中で謎の賢者が彼女に助言を伝える、この場所を抜け出すために5つのアイテムを集めよと。そして彼女の戦いが始まる、中世の日本で、ゾンビの襲い来る戦場で、ドラゴンが火を吐く幻想世界で。彼女は戦いに勝つことができるのか、そして、このいまわしい病院から逃げ出し、自由を勝ち取ることができるのか?

とにかく初っ端から映像のテンションが半端ではない。しかしこのテンションは同じ高度のまま最後までずっと持続してしまう。しかも"アイテムを取る"為のそれぞれのステージは、物語的なパートを取り去ってしまうと、どれをどの順番で映画の時間軸に配置しても変わりないものになってしまっている。つまり映像だけ観ると派手ではあるがメリハリが無く、必然性が無いのだ。しかしそういった弱点があるにもかかわらず、この映画はひたすら魅力的な作品だ。というよりも、この映画は、どこか映画とは呼べない部分すらある。言ってみれば"アイテムを取る"為のそれぞれのステージは、それぞれ一個一個が独立したイメージビデオのような作りになっており、すなわちこの映画は、映画というよりもザック・スナイダーのイメージ・ビデオ集大成といったものになっているのだ。個々のイメージ・ビデオはそれこそどれも力の入ったものであり、どれを比べても全く遜色の無いエキサイティングなものに仕上がっているが、それを並べた"だけ"だと確かに物語映画としてはメリハリの無いものとなってしまう。イメージ・ビデオはイメージ・ビデオであり、それは映画ではない。だから物語映画を期待して観てしまうとこの映画は並べられただけのイメージに次第に食傷してくるだろうが、一人の映像監督の頭の中にあるビジュアル・イメージをどこまでも堪能したいと思って見るならば、この作品は格別なものとなるのだ。

■『エンジェル・ウォーズ』と『インセプション

多層的な夢=夢想の世界を舞台にしていると言う意味で、『エンジェル・ウォーズ』はクリストファー・ノーランの『インセプション』を想起させる。『インセプション』が"夢"を描くことにより、監督の持つ想像力をほしいままに表現した作品であることと、ザック・スナイダーの『エンジェル・ウォーズ』が"夢想"を描くことにより、同じく監督の持つ想像力をほしいままに表現した作品であることは作品の製作スタンスとして非常に似通ったものだといえるのだ。しかし『インセプション』が"夢"を描いたものであるにもかかわらずどこかロジカルであることと、『エンジェル・ウォーズ』がハチャメチャであることとは、これは監督の持つ資質の差ということができるだろう。クリストファー・ノーランの"夢"がロジカルであったのは、ノーランが自分の想像したものに対して一歩引いた視点から描くことが出来ているからであり、そこからは「どう?凄いでしょ?センスいいでしょ?僕にはこんなことが出来るんだよ?」というプロフェッショナルな"ドヤ顔"がうかがう事ができるが、スナイダーのそれは、「これも好き!あれも好き!みんな大好き!」と、自分の大好きなもので埋め尽くした想像の中で自分自身が楽しんでおり、ある種独りよがりで好き勝手すぎる映像のありかたが、"中2病的"と言わしめるものとなっているのだ。

これを部屋に例えるなら『インセプション』がクールなヨーロッパ家具が整然と配置され現代美術のオブジェや絵画がそこここに並べられたシャレオツな部屋だとすると、『エンジェル・ウォーズ』のそれは美少女やら怪奇なモンスターやらのフィギュアが乱雑に並べられ、マンガやDVDがあちこちに溢れかえり、大画面モニターには極彩色のゲーム画面が踊っている、そんなオタク部屋であるのだ。ノーランの部屋は人に見せても恥ずかしくない、しかも"ドヤ顔"でえばり腐れる部屋だが、スナイダーのそれは目を輝かせる人もいると同時に、眉をひそめる人もいるという部屋なのだ。結局好みの問題でしかないのだが、オレがどっちの部屋が好きかと言うと、当然ザック・スナイダーの部屋であるに決まっている。ってかこれはオレの部屋でもあるがな!!(そういった"自分の好きなものを並べた(だけ)"という映画は例えばリュック・ベンソンの『フィフス・エレメント』が挙げられるが、あれもかなりハチャメチャな映画であるにもかかわらず、どこか愛すべき作品だった)

■多層構造世界

しかし、この映画は映像だけの先行した物語性の薄い作品なのか。いや、そうではない。夢と現実が多層構造を成しているこの物語は、実はダンテの神曲そのままの階層世界であることに気付かされる。少女が継父の邪な企みにより精神病院に収監させられた現実、これを【現世】としよう。そしてその精神病院を、表向きは踊り子たちがショウを行う劇場に見せかけた娼館であると夢想した世界、これを仮に【煉獄】としよう。さらにその娼館の中で、自由を勝ち取るためのアイテムを追い求める戦いのフィールドを夢想した世界、これも仮に【地獄】としよう。下層世界はその上層世界のいわば"影絵"となっており、【煉獄】にしても【地獄】にしても、そこで行われたことはその上層である【現世】で行われたなにがしかのことを、夢想の形で反映させたものであるのだ。

それでは何故少女は夢想するのか。それは言うまでもなく、【現世】は、即ち現実世界は、陰惨で悲嘆に満ちたものでしかないからだ。堪え難い程に残酷な現実、それから逃れる為に少女は夢想するのだ。しかし、そうして夢想した【煉獄】の、さらに下層に何故、わざわざもうひとつの夢想世界、【地獄】が必要なのだろうか。

■"ダンス"の意味とは

ここで【地獄】、すなわち妄想のバトル・フィールドに突入する際に、【煉獄】の世界で主人公の少女がアイテムを持った男たちの前で"ダンスをする"ということを思い出して欲しい。しかし、ダンスをする、と言いながら、画面の中では少女が実際にダンスする映像は一切流れない。即ちそれは、現実には、ダンスではないのだ。ダンスは、アイテムを持った男たちを魅了するのが目的だった。しかし、ダンスが始まると、少女たちは、より荒唐無稽なファンタジー世界の中に入っていった。この映画の中で、"夢想"は、厳しい現実を忘れるため用意されるが、そうして用意された【煉獄】の中でさえ、さらに強烈な"夢想"が必要とされる、ということは、おぞましい現実世界の中で、より一層おぞましいことが進行しているからに他ならない。

夢想の【煉獄】で男たちを魅了するために行われるダンスが、もうひとつの夢想の【地獄】で"戦い"であること。それは、現実世界【現世】で、主人公の少女が、あるいは仲間の少女たちが、男たちを魅了し、虜にする行為――端的に言うなら、"自らの性を男たちに捧げていた"ことに他ならないのではないか。現実的に、拘束されている少女たちが、男たちに出来ることは、それしかないではないか。自由を得る為に行わなければならないこのあまりにも屈辱的な"戦い"。映画ではそういったことは一切語られないが(レーティングの問題もあったのだと思う)、そういったことを踏まえて、あの紅蓮たる想像力の踊るファンタジー映像を見るならば、その戦いがいかに少女たちにとって過酷で痛々しく、切実なものかわかるではないか。

■"エンジェル"たちを救うもの

数々の戦いを乗り越えながらも、数々のものを失ってゆく少女たち。最後に彼女たちを待つものは何か、そして、最後の謎のアイテムとは何か。それは映画のほうを観てもらうとして、ここではひとつだけ謎の存在である、"賢者"とは何者であったのかを考えたい。【現世】、【煉獄】、【地獄】。こうして描かれた世界の中で欠けているのは、【天国】の存在である。結末に関わるるので多くのことは書けないが、その鍵となるのは夢想の中で現れる"賢者"の存在だ。【煉獄】と【地獄】の中で現れる、少女たちと敵対する人物は、【現世】の中で現れる人物と対応しているが、この"賢者"だけが、誰とも対応しない謎の存在なのだ。
少女たちを導き、自由へのアイテムを奪取する方法を指示する"賢者"。その"賢者"の存在が明らかにされ、あるナレーションが成されるラストにおいて、作品は、ひとつの救いについて示唆する。それは【現世】、【煉獄】、【地獄】を超えたもうひとつ階層のことだ。それは【天国】であったのか。それは真の救いなのか、救いとも呼べない何かなのか。ただ、自由の戦いを助けるものが、ひとつの想像力であること、そして想像することが、現実を変えてゆくものであること、それを、素晴らしい想像力に満ちた作品として描くことで、映画『エンジェル・ウォーズ』は、監督ザック・スナイダー自身の、想像力の凱歌を謳いあげたものとして完成していることに間違いは無い。


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