食べる順番について考えたい

食事をする際に目の前に出ているおかずをどのような順番で食べるか?というのは人間の根源的宿命的な命題である。つまり『好きなものから食べるのか?』『嫌いなものから食べるのか?』ということである。『好きな物だらけ』という健啖な方もいるだろう。また『嫌いなものは絶対食べない』というストイックな誓いを自らに課している方もいるだろう。
それにしたとしても幾品ものおかずを一遍に口に放り込むわけには行かない。そこにはおのずと順序と言うものが生まれるはずだ。無論人間はただ単に好き嫌いだけで順番を決めているわけではないとは思う。祖父母の遺言や宗教的な理由、宇宙からの電波やこっくりさんのお告げで決めている人もいるかもしれない。
しかしここは単純に「好き嫌い」での順番について考えたい。
ある本で読んだのだが「好きなものから食べていくならばずっと好きな物を食べられることになるが、嫌いなものから食べていくとずっと嫌いなものを食べることになる」というようなことを云っていた。
例えば嫌いなもの、というかそれほど好きでもないものから食べるとしよう。そうすると最終的には好きな物に行き当たるわけだが、例えばこれが5品目あったとして、最後に食べる好きなものを「0」に最も嫌いな物を「-4」というふうに数値をつけてみよう。何故マイナスかというとそれは「嫌いなもの」の意識の数値だからだ。ここで5品目の食べ物は「-4、-3、-2、-1、0」と数値が繰り上がってゆくが、結果的に「0」に辿り着くまでは全てマイナスの「嫌いなものの値」が付くことになってしまう。
逆に好きなものから食べていくとどうか。これは嫌いなものを「0」とその数値の最終値とするなら、好きなものから食べてゆくと「4、3、2、1、0」とプラスの「好きなものの値」が付いた階梯の数字となる。「0」に行き当たるまでは全て好きなものである、ということになる。つまり同じものを食べていても好きなものから食べていくほうが嫌いなものから食べていくよりもお得なのだ、と云う考え方である。
しかしオレはこの考え方に異議を唱えたい。なぜなら福は最後にあったほうがいいではないか。そして数値の階梯と云うのも、一番好きなものは数字で言うならあくまで「10」で、嫌いなものは誰がなんと言おうとそれは「0」なのだ。そしてその閾値内の3品目は「9、7、2」などとばらつきがあるはずだ。つまり先の理論は非常に客観的な数値上の理論であり、また、定義上食品が「5」しか存在しないという考え方から導き出されたものだ。しかし現実的に「5」しか食品が無かったとしても、食べる側にしてみれば数多の食品の中の「5」品であり、どの順番だろうがその好き嫌いの数値は食べる側にとって既に先験的に決定しているものなのである。そして最後に一番好きなものを食べると言うことは最終的に満足値をMAXに持っていくためのテクニックなのである。
このテクニックを裏付ける文献として泉昌之著「かっこいいスキヤキ」所収の『夜行』というコミックがある。しかしこのコミックでは好きなものを最後に持ってゆくことへの潜在的な危険性についても言及されている。これはこの現実を生き抜くための非常に重要な観点を示唆するものとして興味深い。小手先の技術に溺れず、日々精進するべきである、と云う教訓なのであろう。明日を生きる善男善女の皆様には是非お読みいただきたい現代人必読の書である。(え?)

かっこいいスキヤキ (扶桑社文庫)

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