ターネーション (監督 ジョナサン・カウエット 2004年 アメリカ作品)

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人は何故写真を撮りたがるのだろうかと思う。何故スナップ・ショットを撮り、写真のアルバムを自らのポートレイトで埋め、見た物や体験した事を映像として残したがるのだろう。誰かにそれを伝えたい、という気持ちもあるんだろう。また見返す事で追体験出来るというのもあるだろう。ただもうひとつ、写さなければならない、という強迫観念めいた不安があるような気もする。記憶や体験が色褪せてくる事が不安なんだろうか。

オレは写真を撮らない。映像として残したい物など何も無い。記憶にある映像が、映像を含めた世界丸ごと一個の体験こそが最も美しい映像だと知っているからだ。でも文章なら書く。それは映像では伝わらない極私的な世界の断片だ。オレのブログは単なるネタと穴埋め記事だけどな。こんなもの本当は書かなくてもいいんだ。でも、たまに、書く事で見えて来る事があるんだ。

この映画《ターネーション》は監督であり、この映画の中心人物であるジョナサン・カウエットの『個人史』でありドキュメンタリーだ。彼は11歳の頃から31歳になる現在まで撮り溜めしていたというVHS、ベータマックス、16ミリフィルム、合計1349本を編集してこの映画を完成させた。ジョナサン・カウエットにとって、自己の映像を撮り続けるということはなんだったのか。

ターネーション=TARNATION》とは「天罰、破滅」の意だという。自らの『個人史』に「天罰」とタイトル付けざるを得ないような人生、幼い頃から不遇な境遇で育ち、不安と混乱にまみれた自己を抱えながら生きざるを得なかった一人の青年の精神史がそこにある。

ここで語られるのは美しかった母の悲惨な人生と、ゲイとして生き繊細で多感な少年期を過ごし、母への強い愛を持ちながらも困難な人生を歩まざるを得なかった自分や家族の歴史である。事故、精神病、虐待、薬物中毒、廃疾、別離、性的倒錯、あらゆる否定的な状況を抱え、それを「天罰」と呼ぶ以外無いような、余りに痛ましい個人の歴史。

彼が、幼い頃から自らの映像を撮り続けた事、それは、いつ風船のように破裂してもおかしくは無いそんな自己の存在を再確認する為の最後の手段だったのだ。

しかし、映画は、ともすればただ陰隠滅滅としがちなそのような題材を、幻惑的なビデオエフェクトや他の映画作品のコラージュなど個性的な映像編集と、ソリッドなロック・サウンドを重ねる事で、瑞々しく美しい、激しく心を揺さぶるイメージに彩られたアーティスティックな作品に仕上がっている。音楽や音処理は本当に素晴らしい。不安げにさせられる重低音が何度も差し挟まれ映像とシンクロするが、このへんにも編集者としての監督の手腕を感じる。

つまり、この作品の見所というのは、悲惨な個人史を語りながらも、作品として他人に提出される際のその編集のありかたが魅力的である事なのだと思う。何があったか、ではない。それをどう感じ、どのように表現できるか、が問題なのだ。表現されるものとは、その表現の仕方それ自体が、内容に関わってくるはずなのだ。

この映画はiMovieを駆使して編集されたものであると言う。これは現在注目されているvlog、個人の映像コンテンツ配信の先駆け、その作成の参考例ともなりうる作品ともとれるのではないか。携帯やデジカメで撮影された個人映像を配信する時、その編集や表現方法のひとつのあり方がここにはあると思う。つまりvlogでも編集一つでこの映画のような実験的でアーティスティックな作品提出の場になりうるという事だ。個人映像のデジタル編集が簡易になった昨今において、この映画は様々な可能性を示唆するものであると思う。

あと、男はどうしてゲイになるんだろう?と思う事があるけれど、それって男性的な社会を自らの肉体も含めて忌避し否定する事でもあるんだろうかと思う。男性的で体制的で暴力的で制度化された世界の否定。自分でも知ってるんだけれどオレの日記ってゲイ・ムービーやゲイ・ミュージックへの言及が多いんだよね。彼等への心情的な共感度は高いと思う。かといって普通に女好きでゲイでも無いオレは、どこか男として意識的に下品な存在であり続ける事で男を笑ってしまいたい悪意を持っている。どこかでこいつらみんな叩き潰してやりたいという破壊的な衝動を持っている。ゲイ的な繊細さではオレは今いる男の社会では勝てないもの。そして、負けてばかりいられないんだ。

この映画は決して明るいものでも楽しい物でも無い。個人が赤裸々に自己言及するのは、それはそこに語る事によってしか癒せない強烈な痛みがあるからだ。しかし、にも拘わらずこの映画には希望がある。それは家族への強い愛と絆、そして現在を乗り越えようとする勇気の存在だ。この映画にはなけなしの、ギリギリの自己肯定がある。暗い絶望に飲み込まれる一歩手前で踏みとどまっている、「でも僕はここにいるんだ」と泣いている子供のような魂がここにはある。そしてその泣いている子供は、オレの中にもいるような気がしてならない。

そしてオレ自身、矮小なブログなんぞを垂れ流しているが、「自分について語る事とは何か」ということを強く考えてしまった。語ればいいと言う訳ではない。それをどこに昇華して行くかという事だ。ようは志なんだろうな。オレはこの映画の監督ジョナサン・カウエットのように自分を語る事は出来ないししないだろうけれど、ひとりの孤独な個人として、自分の足元を見続ける事が出来ればいいな、と思った。

ターネーション》 オフィシャルHP : http://www.herald.co.jp/official/tarnation/index.shtml