ユーセーミンエイカ問題ですか。これは公務員らのキトクケンエキを守る為の体制が結果的に国の財政を脅かしているので、これをコーゾーカイカクするのだ、ということらしい。正しい考えだと思う。思うが、オレは自分の日記でそんな話をしたいわけではない。
セージ的な話を声高に論じたがることがどこか胡散臭いのは、語る人間の「正義」や「正しい主張」の寄る辺となっている部分が見えないからだ。「正しい」ことを言う人間が「正しい」とは限らない。その本人にとっての「正しい」とされる事を言う行為を自分の何らかの欠損の埋め合わせ、代償行為、自己充足として言ってんじゃないんか、と、そう勘繰りたくなってしまうことのほうが多い。「正しい」事を言うそのあなたは一体何者?と思ってしまうのだ。
オトコは政=マツリゴトが好きだ。だいたいオトコって観念的で血肉の伴わないデータを大量に動かすのって得意でしょ。そして理屈を武装代わりに使うでしょう。最初から立ち入る隙を見せないことは論理や自分を守ることは出来るけれど、でも、「守る」ことってそんなに重要?そんなにまでして守りたいものって何?
こういった意見で唯一頷くことが出来るのはその人の生活がその裏に見えているときだ。その人の足元が。その時、その意見が「正しい」とか「正しくない」とかは実はどうでもいいのだ。その人の立場や生活が見えるとき、その意見と自分の考え方をすり合わせてもう一度その物事を考えてみる。なるほど、立場が違うとこういう考え方もあるのか、と。これが「対話」というものなのではないですかね。ねねね。
あともうひとつ思ったのはキトクケンエキを守りたがるのって、別に省庁だけの話ではなくて、普通の私企業でもいっぱいある話じゃないのかなあ。セージ的な部分をカイカクさせようという考えは間違ってはいないと思う。でも自分らの日常を顧てみれば、なぜかそれは暗黙の了解になっている。本当はこういう感覚って全て地続きであるべきだと思うんだけどな。マツリゴトは批判し、自分の日常は批判しない。オレは別にゼセイしよう!とかカイカクしよう!とか言うつもりはさらさら無いけれど、こんな風に日常を通り越してマツリゴトを語るのは、なにか微妙に違和感を感じることがあるんだけどな。ななな。